「あなたは神である」「私は神である」

スピリチュアルで最も繰り返される言葉/神示とヌーソロジーから少しだけ


「神」について

「あなたは神なのです」という言葉に、スピリチュアルが好きな人ならしょっちゅう出会っていると思います。まぎれもなく真実だと思います。

しかし、これほど究極の真実をこれほど繰り返しているのだから、みんなが本当にそれを理解できていれば、とっくに世界は神の世界になっていると思います。とっくにアセンションしているはずです。

大本神諭や、日月神示、それ以前の金光教、黒住教、天理教でも、教祖の教えは究極のところで共通していると思いますし、そもそも神道においても、人間の魂は神の分霊わけみたまだというのですから、昔から一貫した真理として伝えられていることです。それをみんなが本当に理解できていれば、もうとっくにミロクの世は到来しているはずです。

ということは、多くの人が本当には理解できていないのだということが自然にわかります。

神や高次元の存在が、「あなたは神なのです」というのですから、本当はそれで全部おしまいのはずなんですけどね。

もちろんそれは、そのメッセージに触れている自分だけが神であるということではなく、「すべての人が」という意味であり、もっと言えば、「すべてがエネルギーです」「エネルギーは愛です」「愛です、意識です、神です、それ以外のものはありません」というのですから、本当に素直にそれを聞けば、「はい、わかりました」で、もう終わりです。ミロクの世です。

日月神示では「生まれ赤子の心」という言い方が何度も出てくるので、まっさらな赤ん坊の心で聞ければいいんでしょうけど、中々そうもいかないのが人間なのでしょう。

なぜ多くの人がこのことを理解できないかというと(もちろん私だって完全に分かっているわけではありませんが)、私が思うことですが、みんなあまりにも思考することを放棄してしまっているからだと思っています。
大事なのは、言われたことについて、「・・・ということはつまり・・・」というふうに、

一旦その言葉を自分の中に置いて、その視点から方々を見回して、すべてに当てはめていく

という作業を心で行うことです。
西洋哲学的な”思考”というのとはちょっと違うかもしれませんが、より実践的な心の作業とでもいいましょうか。

日月神示の「生まれ赤子の心」であれば、それはもう神の状態なんじゃないですかね。
でも、人間としてこの強烈な自我意識、個別化され相対化された「自己」と「他者」という認識の、その「自己側」だけで意識を循環させて完結させてしまう、このいびつかたよった自己像をもって生まれてきたからには、ここを起点に解脱することが、人間存在の生命形態であり、自然な生き方であると思います。

そのための思考です。人間の自我意識が偏っているために、それを全きものにするためには、まずその自我意識を自らコントロールして、その働きを明らかにすることが大事なのではないでしょうか。でなければ、正体不明の得体の知れない情動に流されるままに、自己側だけで日が暮れて、人生も終わってしまいます。

そして、こうした心の作業が自然な生き方であるとするならば、それをしないことは、不自然な生き方だと私は思うのです。つまり、思考する機能を人間は生まれながらに持ち合わせているのだから、その思考を使ってしかできない大事なことがあるということです。

私は西洋哲学よりも東洋哲学が好きなのですが、東洋哲学のイメージでよくあるのが「考えるな」だと思います。でも私が昔熱心に読んでいた老子、荘子、禅の臨済録などは、深く絶え間ない思考の末に辿り着いた境地を、非常に簡潔な言葉で象徴させてみせているものではないかと思っています。文章に現れた表現は、非常に比喩的で抽象的で(臨済は極端に直接的)、簡潔なのですが、そこに至るまでの思考の過程はおそろしく深遠なものであると思います。臨済にしても、修行中は仏典の研究に非常に熱心だったと伝わっています。ある境地に達するまでには、一定の思考の熱量が必要なのではないかと考えています。私がヌーソロジーと半田広宣はんだこうせんさんが好きなのも、思考を重視しているところが理由の一つです。

そもそも自分は「神」をどう認識しているか

「あなたは神です」と神/高次元の存在から言われたとき、スピリチュアルに関心のある人には、何か直観で「うん、そうかも」という響きを感じられると思います。

しかしそこから多くの人は、「じゃあ自分が神であるとは・・・」とはらに据えて、改めて世界を見回してみたり、「そもそも神とは・・・」といって「神」についての自分の認識を一から問い直してみたりということをしないのではないでしょうか。

端的に言うと、多くの人は、「神」と言われても、それがありのままの自分自身のことを言っているのだと分からないままなのではないでしょうか。
自分がもっていた従来の「神」という認識を握りしめたまま、「自分の神」を使ってその言葉を受け取ってしまうので、何度言われても「神」は「神」で、自分が作り出した神に自分で捕らわれているように思えます。

自分にとっての「神」の認識が、とても畏れ多いもので、崇め奉るもので、キリスト教やイスラム教に代表されるような、人間を上から管理・監督するような神で、人間と神は根源的に相容れないもののようなイメージがこびりついていると、チャネリングなどで「あなたは神です」と言われても、おだてられているような、元気づけてくれているだけのような、今の自分には到底悟れない深遠な真理をほのめかされているだけのような、そんな感覚で聞き流してしまうのではないでしょうか。

しかし本当は、その言葉に少しでも真実の響きを感じられるのであれば、一旦立ち止まって、その言葉を心ゆくまで吟味するべきものです。

何か真実の響きを感じるのに、それを聞き流しているというのは、自己欺瞞であり、自分への裏切りであり、”悪”の本体だとすら私には感じられます。優しい言い方をすれば、「真摯でない」でもいいでしょう。

でも真理というのは真理であって、全てに共通する、普遍の、ありのままの、自然のものということですから、本当はそれは、一番身近なものであって、一瞬々々、常に接しているものであって、自分の本性そのもののことでしょう。真理という言葉が自ずからもつ意味が、要するに全て・・ということですから。

一つの言葉に帰神するロゴス

「あなたは神です」というなら、「私は神である」ということですし、「あの人も神である」ということで、「みんな神なのだ」ということです。

これは言葉で言分ことわけて言うから複数の言葉に分解されていますけれど、本来はすべて純粋に一つの言葉です。まったく同じ真理から派生した複数の言葉であるというだけのことです。ロゴスです。

ですから本来は「神」という一つの言葉を立てれば、そこにはすでに、これら全ての言葉が同時に含まれています。

自分が従来抱いていた「神」のイメージから無理やり引き延ばしてチャネリングや神示を理解するのではなく、その言葉をそのまま一旦自分の肚に落とし込んで、それで生きてみるのです。

すると、そこから見える景色が、神が見ている景色になります。自分が神なのですから。

人間の愚かさも神性のひとつの側面

「神」に何か、理想的な「完璧さ」を見ている人は、かなりやっかいだと思います。自分が勝手に想像する理想の神と、自分が勝手に想像している自己像があまりにも乖離していると、自分を卑下したり、あるいは自分を無理やり祭り上げてしまったり、今まで以上に不自然な人間になってしまうかもしれません。

今ある人間の愚かしい姿、社会の姿も、人間存在が根本から持ち合わせている生き方の一つの結果なのであって、それを呪うというのは後ろ向きの生き方になってしまい、良い生き方ではないのかもしれませんね。
だから私はそれらの愚かしさを直視して、一旦認めてよく観察して、そこから自分なりに導き出した提案を、このサイトで(様々なカテゴリで)示していきたいと考えています。

今の愚かしい人間社会について、私には思春期の頃からもっている一つの比喩的なイメージがあります。それはアリづかです。アリという虫は、もちろん自然の生き物なのですが、あのアリ塚ってすごい建造物ですよね。すごいもの作りますよね。空調のための穴もあって、新鮮な空気と温度を内部で保っているんですよ。

そのアリ塚と、人間が作ったビルや都市が同じように見えるのです。

人間もまた、人間としての自然な営みから、あのビル群や科学文明を、せっせと生み出しているのです。人間が作るビルや科学文明と、アリが作るアリ塚と、何が違うのでしょうか。この大自然の中で。

人間もまた大自然の一部であり、自然は神です。

人間のどんな側面も神の一面です。なぜなら神は全てであるからです。全てが神の一部です。この論理は循環して〇になります。神という言葉を立てるだけでもう全ては終わりなのです。

ですから、「神がいるというのなら、どうしてこんな悪魔を放置しているのだ」という考えは論理的に矛盾していることがわかります。全てのことをというのですから、悪魔もまた神の一つの側面なのです。そして「私」の側面でもあります。

悪も御苦労ごくろう御役おんやく。この方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ。

第十一巻 松の巻 第二十二帖 「完訳 日月神示 」上巻

我々はこれら世界の善も悪も、自分の一部としてまずは一旦、認めなければなりません。目を背けたり、ただ単に否定してはいけません。むやみに憎んで、攻撃的になり、自分と彼ら悪魔は違うのだと断罪してもいけません。自分の一部として認めるのです。なぜなら自分は神だからです。自分が神であると認めたいのなら、神である全てを自己として認めなければならないのです。

そうして初めて、世界の危機を本当に感じることができます。この責任の一端は自分にもあると認めることができるのです。

自我と神との区別

自分と神について思いを巡らせるとき、絶対に気をつけるべきことがあります。「自分が神である」からといって、その神を自分の自我のほうへ引き寄せてはいけないということです。自分が神のほうへ溶け込んでいくこと、或いはもっと言えば、自己を神の方へ解放させていく感覚でしょうか。

自我も神の一部ではあり、人間存在の中核ではありますが、自我は自我以外の何物でもありません。
しかし神は、自我でもあり、それ以外の全てであります。ここには明確な違いがあり、全てであるものを一部に押し込めたり、一部であるものを全てであるかのように主張することは自然とは言えません。

例えば私の好きなヌーソロジーでは、自己の主体性をもたずに他者に依存する心理を融解作用ユウカイサヨウといって、それを「悪の根本」であるとします(「2013: シリウス革命」pp.275-276)。悪の本質とは、何か「悪いことをする」というような自分の外に基準のあるものではなく、自己を喪失している状態、またはその状態でやることの全てであるような気がします。

犯罪について考えてみても、その本質は、自分が幸せか不幸かを他者のあり方に依頼して、他者に何かをすることで自分の不幸を解消しようとしたり、幸せになろうとするものでしょう。誰かが規定した法律の条文に違反するかどうかよりも、自己のあり方如何で善か悪かを見定めるこの論理のほうが私にはしっくりきます。

ですから我々人間がまずやるべきことというのは、自我のありかを見極め、その働きを観察し、明らかにすることだと思うのです。まず自我を見極めること。
他人の自我の中を見極めることは不可能ですし、それができる人はすでに自分の自我を見極めている人です。自分の中に入り込んだ深さ以上のものを他者に見出すことはできないからです。自分の観察が浅い人は世界を浅くしか見られませんし、自分を深く観察した人は世界の深部まで探ることができます。

ただし、自我を見極めるといっても、そこに善悪の基準を当てはめることではありません。ただその働きを観察し、コントロールできるようになることです。
自己の本質は自我意識よりも背後/上位にありますので、やろうと思えばできます。自己の本質は神ですから。

全が善なのです。

人民には分別与えてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展できるのであるぞ。放っておいても、要らんものは無くなり、要るものは栄えるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生まれたときより悪くなると申してあろうが。欲、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生まれるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与えられるのぢゃ。無限の喜び得ることできるのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した限りなき、光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。懐手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。

日月神示 春の巻 第九帖 「完訳 日月神示」

大本神諭とヌーソロジーから少しだけ

人間が愚かしいことはたしかですが、それが良いとか悪いとかではなく、これまでの時代がそういうものだったのだろうと思っています。そしてここから、全く違う時代へと突入しているのでしょう。

でも、その突入もちょっと遅れているのは確かなようですね。例えば明治時代に出た大本神諭にはこうあります。

日本の国の守護神しゅごじんに早く判らんと立替たてかへ十二年じふにねん遅くなりてをるから

大本神諭 001 年月日不明 霊界物語.ネット

日本の守護神たちにすら、仕組みや、やるべきことがわかっていないので、立替えが十二年遅れてしまったということでしょうか。このお筆先ふでさきが出たのは、明治時代ではあるようなので、当時から立替え立直しも遅れたりしていたようです。今まで起こらなかったのだから、そりゃそうです。今でもそれは同じですね。でも色々と迫っている実感はたしかにありますが。

少し話は逸れますが、この「十二年」というのが興味深いです。暦で十二支がありますが、もしかすると十二年というのが、大きな出来事のある周期なのかもしれません。前回、大きなアセンションの機運が盛り上がったのが2012年、まさに十二年前なので、何か大きな流れがあるのでしょう。

ヌーソロジーの情報源である”冥王星のオコツト”なる存在は、人類の意識進化の過程のスケジュールを示しています。それはこうなっています。

1930年・・・最終構成への調整開始
1979年・・・最終構成の開始
1989年・・・新しい定質の発振
1999年・・・位置の等化
2012年・・・位置の中和
2013年・・・位置の変換開始
2025年・・・位置の転換開始
2037年・・・入神
(「2013: 人類が神を見る日」p.91)

知らない人にはチンプンカンプンのヌーソロジーですが、ともかく時系列だけを見ると、2013年からは12年刻みで進行しています。しかも、2025年というのは、今YouTubeでも話題沸騰の年ですし、興味深いですよね(私はペンキ画家のショーゲンさんが好きです。やっぱり縄文時代が好きですので。あと「わたしが見た未来 完全版」も読みました)。

ちょっと横道に逸れた感があります。

自分の中でしっかりと思考を熟成させることが重要なのではないかということを書きました。

チャネリングやQなどの情報や神示に依存して、待っているだけというのは、むしろそれらの発信源の存在たちの愛を無駄にしてしまうことなのではないでしょうか。

我々一人ひとりが主体性をもつことを、高次元側からの”私”も望んでいると思うのです。


付録 オコツト情報からの追記

さらに今、ヌーソロジーの半田広宣はんだこうせんさんの本を読み返してみると、やはり興味深い記述がありました。2025年の「位置の転換開始」と、やはりスピリチュアルで2025年に始まると言われている「宇宙人との交流の開始」について関係があるかもしれません。

オコツトは、宇宙人のことを「転換された位置」「転換位置」と呼んでいます。(シリウス革命 pp.137-138)
「位置の転換」とは厳密には違うのかもしれませんが、どちらも2025年というキーワードで共通しているのでちょっとメモしておきます。

まず、2013年の「位置の変換」、2025年の「位置の転換」の意味なんですが、

位置の変換・・・世界側から自分(の背後側)を見つめる意識を作り出したときに、すでに意識の位置が他者側(の意識)へ変換されていること。その作用・次元。
位置の転換・・・他者が他者の背後側から<わたし>という自己の正面側の位置へと入ってくる意識。その作用・次元。
(参考「2013: シリウス革命」 pp.295-297)

といった意味で、これはプレアデス(人間の意識が物質を生み出している次元)における、
下次元から上次元への意識の流れ(位置の変換)と、
上次元から下次元への流れ(位置の転換)が、
交差・・を起こしている場所に存在する作用だそうです。

この場合の「上次元」というのは、「自己と他者を等化トウカした次元」という意味で、「下次元」というのは「自己と他者の区別が存在している次元」です。(p.299)

位置の転換作用をもう少し説明すると、「人間の意識に進化が起こり、自己の意識が他者と同一化し、社会的意識の次元に入っていくときに、その反映として再び自己の次元へと戻されてくる意識のこと」となります。(p.510)
また、「自己という場を確立させるためのカタチへの侵入」。(p.297)

あくまで私の解釈ですが、これはつまり、人間が自己と他者を一体として認識するまでに進化したときに、それでも自己を認識する自我意識は残っていて、「自分」はある。その「自分」を生み出している作用、ということではないでしょうか。

で、プレアデスにおいて上次元から下次元に向かう意識の流れが位置の転換ですので、ここで何となく「高次元からやってくる宇宙人」というイメージと重なるものがあります(私的に)。地球人類の一定数が自己と他者の一体意識(ヌーソロジーでは「等化」された意識)を達成したときに、そこへ新たに地球以外の次元から「他者」がやってくるという構図です。
地球=自己、外宇宙=他者という相対性が新しい次元で始まるのです。

「位置の転換」と「転換された位置」、2025年。

なかなか興味深いです。
ただ、オコツトの情報は、一般のスピリチュアルの情報とは完全に異質で、一見しただけでは信じがたいことの連続です。私はただ認識の仕方の違い・・・・・・・・に過ぎないように感じていますが、これからご自身でヌーソロジーに触れようとする際には、思いきり心を柔軟に開いてみることをおすすめします。

最後にちょっと、アセンション的なことについての交信記録をメモしておきます。

半田さん 肉体からぼくらの意識が解放されるのは、意識がどこまで進化したときなのでしょうか。
オコツト 力の変換が完全化したときに、それは起こります。変換、転換が完全化すれば、人間の意識が妙性ミョウセイを交差し、力の抽出が始まります。わたしたちがあなたがたの意識にタカヒマラの総体を見せるときです。
(シリウス革命 p.602)

またこんなこともあります。ヌーソロジーでは、人間の意識次元を12に区切って、それを次元観察子ψプサイ1~12として表現します。それぞれの次元観察子に段階的な働きがあるのですが、ψ5は自己の確立ψ6は他者の意識空間、そしてその自己と他者を等化トウカ(相対するものを一体と見ること)した次元をψ7としています。ψ7が愛の次元だそうです。
自己他者を等化してになる過程の数字が 567 になっていて、コロナ・・・でもあり、また大本での出口王仁三郎や、日月神示で用いられる言葉「五六七みろく」にもなります。

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