子供の私、私という意識の中心点

少年の直観/意識の中心点 


少年の直観

私は幼少の頃から、自分の心の中に元々ある直観を感覚して、その感覚ばかりを感じていて、身体で経験することや、周囲の親や大人たちのことを最初から信じていませんでした。

そういうお話をしながら、私の個人的な経験を通して、普遍的な真理を抽出していくような記事にできればと思いながら書いていきます。

心が現実の世界

これまでの人生を通じて頻繁に思い出す幼少の頃の心の場面があります。それは神についてもスピリチュアルについても何も考えたことのない5、6歳の頃の思い出です。

その頃にはすでに周囲の人々(親や同年代の子供たち)のことを「なんかイヤだな」と感じていて、家の柱に「こんないえにすみたくない」と刻み込んで母に怒られている場面がその一つです。その家は7歳の頃には引っ越しているのでそれ以前の思い出です。

もう一つは、やはり同じ頃、夜に親の運転する車の後部座席から後ろの窓の外を眺め、そこに映る何かの光をずっと見つめながら、「この光が自分の本当の親だ。今の親は本当の親じゃない。早く本当のお父さんお母さんのところに帰りたい。早く帰りたい」と心の中で繰り返している心象風景です。
なにか甘いような、泣きたいような、悲しい、寂しい、そしてその光が懐かしい、強く心惹かれるもので、揺れているのです。

心に絶対的な違和感があるために、周囲に見えたり触れたりしている世界を本当のものだと認めることができなかったのです。

…何が言いたいかというと、私にとってはそういった心の中で起きていることこそが真実であり、現実であって、身体を取り巻いて渦巻いている周囲の出来事一切は副次的なものという感覚がずっとあったという話です。

自分が心に感じていることが現実。目で見たり体で感じていることは、それを心に映して、心を通して初めて現実として生成されている感覚です。今大人になった自分の言葉で表現すればこうなります。

ですから、現実というものは、心に感じるもの、心に映ったもの、心を通したもの、それを感じること、それが現実※1なのです。

※1: その「心」も同じく、人間という現象に即して生み出されている幻の一つではありますが、「現実」という言葉自体に、「幻を真実であるかのように感じている状態」という意味があるように私は感じていますので、そういう意味での「現実」としてこの記事では使用します。

十代の概観

私は少なくとも十代の頃までは、他人から何かを教わったという感覚がありません。もちろん、言葉、読み書き、算数、人との挨拶の仕方とかいったものは教わってはいるのでしょうけれど、そういうことに現実感はありません。

私は心を経験しているのであって、体を経験しているのではないのです。体の経験は、心を通して「心地良いなあ」「気持ち悪いなあ」「痛いよう」「美味しいなあ」と意識的・・・に感覚して初めて現実となるので、結局は心を経験しているだけなのです。

ですから、思考というのは、身体感覚よりもより直接的な現実ということになります。身体感覚というのはどうも心とは距離を感じるもので、「体を眺めている」感覚があるものですが、思考というのは心が直接的に操作して、部品を組み上げている積み木遊びのような感じで、より明確でハッキリとカタチをもっていて、実感のあるものなのです。

私は思春期の頃の、思考を風の流れに例えるなら春一番の突風が吹くようなあの頃から、思考は積み木のブロックを組み上げるような物理的なものというイメージをもっていました。「この固定観念の土台があるから、あの概念は成立していて、ここの定義が不明確なまま、あそこに次の言葉を乗せると論理全体がグラついてしまう」といった具合に、概念とか論理とかが成立している構造の全体像が、一つひとつの言葉のブロックで構築されている様がハッキリと見えていて、それは物理と同じものだと思っていました。それは今も同じですが。
ですから、言葉とか、単体の概念の定義を不明確なまま理屈を押し進めている人を見ると、すぐに「あの人は、あそこの概念がすっぽり抜けているのを自覚できずに不明確なまましゃべっている。虚栄心と依存心がそうさせるのだ。学者のように偉そうにしているけど、頭の中は曖昧なただのおじさんだ」などと断定しているような子供でした。
そして、11歳くらいまでの、さほど理屈っぽくなかった年頃においても、おそらく大人と哲学的な会話ができる程度には自分の心をハッキリと観ていました。

この感覚で周囲の大人を見ていると、「この人たちはもしかして、なーんにも考えていないんじゃないか」と思うようになり、10歳か11歳の頃にはすっかり周囲の大人をバカにしている子供になってしまいました。その辺はまだまだ未熟な子供だったのです。

16歳の頃には禅にのめり込んで、今でも大好きな臨済録りんざいろくに出会い、その他、無門関むもんかん碧巌録へきがんろく、日本の鈴木大拙すずき だいせつなどの本を読むようになりましたが、それらにしても、教わっているというよりは、自分の中にずっとあった感覚を、初めて他人に堂々と肯定してもらった喜びからでした。強烈な共感だったのです。

たしか、いわゆる霊的な世界に目覚めたのは、20歳を過ぎた頃だと思いますが、大本の出口日出麿でぐち ひでまるの伝記を読んだのがキッカケで、霊とか神とかは本当なんだと知り、大本神諭おほもとしんゆを読み始めました。そこから、ヨガ(思想、瞑想、教典、本山博もとやま ひろしさん)やスピリチュアルにも傾倒するようになり、日月神示ひつくしんじを読むようにもなるのですが、例えば「神との対話」※2という有名な本がありますが、神とか霊とかいう高次元の現象世界の話は抜きにして、宇宙の普遍的真理についてあの本(のシリーズ)で読んだことは、私にとっては「新しく知ったこと」ではなく、ずっと自分の中にあったことを“高次元の存在/神”が肯定してくれたという、やはり強烈な共感の喜びでした。

※2: との対話ニール・ドナルド・ウォルシュ著

ただ、個人的に西洋哲学には興味が続きませんでした。今読むと印象や理解が違うかもしれませんが、当時いくつか読んで感じたことは、あの西洋人独特の論法というか、記述の仕方なのでしょうけれど、論法の技術的な面に引っ掛かってしまって、そのアラが目立って(私の文章を完全に棚に上げていますが)、気になって読む気が失せてしまっていました。それにやはり内容自体も、もう自分の中ではわかっているように思えたので、例えば東洋の老子や荘子のように読み物としての面白さが感じられなければ、わざわざ読む価値を見出すこともできませんでした。
しかし、半田広宣はんだ こうせんさんのヌース理論(その後”ヌーソロジー”と改名)を知って、まさに衝撃を受けてからは、半田さんが西洋哲学をよく参照しているので、関心はもつようになりました。まだ読んではいませんが。

こういった話をするのは、なにも「私ってすごいでしょ」という話ではなく、人間というのは誰でも、自己の中心からの感覚を最大限に大事に生きていれば、普遍的な真理を誰かから教わるまでもなく、元々わかっていることとして生きられるのだということです。

周囲の人間のおしゃべりや、押し付けてくる観念に疑いももたず馴れ合っていると、自己の中心にハッキリとある明らかな真理から目を逸らすようになってしまい、”他者から見た自己像の構築”※3に強い興味を持ち始める思春期の頃には、すっかり自己の中心から離れて、周辺の渦の中に身を投げてしまうことになるのです。

※3: の「他者」という概念も、自己が生み出しているものであることを考えてみてください。

私はあの渦の中には流されまいと、必死で自己の中心にしがみついていたので、どうにか霊的に死なずには済んだのかもしれませんが、世間というものはこの渦の世界であって、死の世界だと言っていいと思います。人々は生きているのではなく、この世界にオギャーと生まれて死にに来ているのです。

そこから生き返ろうともがいているのが、この世の生き地獄の有り様だと言っていいでしょう。「生き地獄」というのはまだ優しい言い方であって、本当は死んでいるのですから、それは地獄そのものなのです。

その渦の中に身投げしている世の大多数の人々の方が、荒行をしている果敢な修行者であると言えるのかもしれません。

私の方はというと、その渦が恐ろしくて、如何に中心を保つかに専念して、そのバランスを保つ心の作業に明け暮れている十代でした。

葛藤と使命感

もしかすると、ここまでで私がずいぶん偉そうなことを言っていると感じられる方もいるかもしれません。しかし、この十代の頃の私というのは、内的に強烈で鮮烈な自我意識をもてあましながら、親や周囲の人間からは全く理解されず、むしろ否定され、矯正されるように育てられたため、根源的な人間不信を抱えており、対人恐怖症のような感覚に陥っていました。ですから、日常生活を送るだけで苦痛の連続で、人との接触それ自体が苦行のようなものでした。

それで、「この苦しみはなんだ」「この苦しみの根っこはどこだ」「どうすれば堂々と気持ちよく生きられるのだ」という、いたたまれないような、やるせない思いと、その焦燥感から、禅や仏教、老荘思想あたりに自分の居場所と答えを見出そうとしていたのでした。

今風に言うと、発達障害のASDの性質もあるでしょうし、ADHDの特性もある気がしますし、HSPでもあると思います。まあしかし、そういうアルファベットでラベリングされる人々の心の中には、私のような生々しく色鮮やかな葛藤が渦巻いているであろうことは、当事者の私からはよく推察することができます。

当時から意識していたことですが、こうした葛藤と複雑な心理を抱えていなければ、自己の内面を深めていく動機は生まれないのだと思います。
もしも、親子関係にも友人関係にもなんの支障もなく、流行のファッションや音楽にも好意的で疑問ももたず、朝の情報番組と芸能ニュースを楽しんで観られていたならば、つまり渦の流れに身を投げていたならば、私は自己の本質を究明する使命感のような衝動を感じて生きることもなかったでしょう。

ただ、そうした葛藤と衝動というものは、どちらが原因でどちらが結果かということは、スピチュアル的には「同時である」とは思っています。つまり、「葛藤があるから自己の本質を究明したい」という順序があるのではなく、「自己の本質を究明する意図」と、「複雑な心理と葛藤を抱える人生」を送ることは、一枚のコインの表と裏のように一体のものであって、人間の人生を超越した次元における一つの意図が、人間界において極性をもって表現された結果なのだろうということです。

ともかく、そういう極性の間で激しく揺れながら、うぶで世間知らずで繊細な心理を震わせて、必死で純粋な真理の柱にしがみついているような、そんな青春だったのです。

”私” 普遍の真理の中心点

ずいぶん個人的なことを書き連ねた記事ですが、この「思うこと・意識」のカテゴリはこういう路線でいきます。ここから私が伝えたかった本旨を抽出してまとめてみようと思います。

私は特に子供の頃、私という意識の中心点から離れることをとても嫌っていたように思い出します。

”私”とか”自分”とか”ぼく”とか名付けられたこの意識の中心点は、どう考えてもこれこそが実在であり、その周囲に知覚されている世界というものは、観察する対象です。観察されて初めて知覚され生起される現象です。こればかりはどうにも否定しようのない明らかな真実です。

高次の意識に覚醒したヨガのグル(霊的指導者)などは、この「私」と「周囲の世界」が一体になる(見る者と見られる者が一体になる)もののようですが、今の私にしても、そこまでの意識を一瞬垣間見る程度の感覚は稀にあるものの、それを持続させられるところにまでは至っていません。ましてや幼いころの私は、思いきり人間的な極性をもった意識のピンホールから世界を覗いていたわけで、当然のように「私」と「世界」は分極していたわけです。

そんな中でも、自己の意識の中心に元々ある感覚をいつも優先させて世界を観察していた点は、今に至るまでの人生を貫く最も価値のあるものだったと思います。

この辺りの「どのように世界を観察していたか」ということについては、いくつもの記事に分けて書いていきたいと思っていますが、今書いておきたいことは、より根源的な位置からの視点で、つまり、私は「私の視点から世界を観察することをやめなかった」※4ということです。

※4: 注釈※3でも書いたように、「他者」や「世界」もまた「私」が生み出している概念に過ぎないのですが、ここで言う「私の視点」とは、自ら生み出した"客観的な"視点ではなく、あくまで主観としての「私」によって世界を観察していたという意味です。

この「私」という中心点は、要するに何かというと、今これを読んでいるあなた自体のことです。

あなたは今この白い背景と黒い線のコントラストを文字と認識して、その文字列を文章に組み上げて意味を生成しています。その知覚の作業をもう一歩後ろから観察している純粋な意識のあなたです。

それは人間ですらなく、ただ純粋な知覚、純粋な知として存在しているだけのあなたです。

ですから、私がこの記事でずっと「私は…」と言ってきた「私」とは、実はあなた自体のことだったのです。

この「私」という点は、客体化することが不可能なもので、主観/主体の存在でしかありえないものなので、私側の視点からあなた自体を説明することはできません。ですから、あなた自体という他はなく、あなたにあなたを感じてもらう他にそれを証明する方法はありません。それにそもそもあなた自体は私自体と同じものなので、このように表現することができるのです。私はあなたで、あなたは私であると。

私が今この記事をこうして書いているのは、あなたのその純粋意識が、私側に生起された世界において、身体を用いてキーボードをタイピングして書いているのであり、あなた自体が別の側面で作業をしているということになります。ですから、私はあなたですと言えるのです。

「私」という点は、現象以前の、現象を生起させるその主体であり、全世界、全宇宙を事前に貫通している純粋な意識です。

ですから、私側からあなた側へ回り込もうと思えば、私は世界の端まで飛行するような外側への方向ではなく、私の心のさらに後ろ側へ意識の位置を辿って、純粋な意識に戻れば、そこがあなた自体の位置なのです。私は私の純粋な意識に戻ることで、初めて本当のあなた自体に会うことができ、その私とあなたとは実は全く同じ意識であったのです。

「神」という言葉がありますが、この言葉はまさにこの純粋意識のことであり、あなたが感覚化/現象化させているその世界側へ、純粋なあなた自体を投影して客体化させたときに、それを呼ぶための言葉です。

ですからそれをわかっている神/高次元の存在たちはこう言うのです、「私はあなたなのです」と。

全ての人、全ての存在がこの通りなので、これから顔を合わせる全ての人、すれ違う全ての人、見かける全ての人、全ての植物、全ての虫、全ての動物、全ての石ころに、あなたの純粋意識の働きを見てください。それが事実をありのままに見た世界です。それが本当の現実です。

「中心点」などという言葉も使いましたが、実はその言葉自体が中心を逸れているものでして、「そこが中心点である」と観察されているものは、すでに客体化されていることになるので、それは私でもあなたでもありません。私は私だし、あなたはあなたとしか言いようがないものなのです。

あなたは今、目の前のこれを観察し、知覚し、生起させている知そのものです。

私というのは、大宇宙、三千大千世界を貫く唯一の実在で、唯一の真実のことです。

全世界、全宇宙はあなたという一点に集束するもので、あなたという一点から生起されているものです。

これはスピリチュアルでも宗教でもなく、純粋な知覚によって自然に導かれる原初の事実です。

ここを離れないでください、というお話でした。

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