ヌーソロジーの反転/科学とスピリチュアル
【4】意識反転 第二部の3 帰還【終】 ←このページです
オコツト:
あなたがたにおいては、真実の意味においての宇宙の内と外が逆転してしまっているのです。
本当の外部宇宙はあなたがたの心の方向にあると考えたほうがいいでしょう。
「2013:シリウス革命」半田広宣 著 p.222
ヌーソロジーの反転
「反転」はヌーソロジーの代名詞と言っても良いと、半田広宣氏ご自身が述べておられます。
私も半田さんの著書に出会ったとき、それを感じました。
ヌーソロジーの情報源である「冥王星のオコツト」の言葉はどれも衝撃の連続でしたが、やはり他のスピリチュアルとの決定的な違いを「反転」に感じました。
論理にがっしりとした骨格があり、「反転」という言葉がもつその意味自体によって、主流の自己啓発的で曖昧なスピリチュアルの言論とは同じ地平線上にはいない、一線を画すものがあると思うのです(言っておきますが、私はスピリチュアルは好きです)。
そんな風に感じているヌーソロジーですが、やはり私がのめり込んだのは、私がそれまでに感得していた世界観との共通点がいくつかあったからでした。
その共通点の一つが、内と外との反転だったのです。
私自身も、「内と外という方向」と、その反転構造(脳内反転)に気づいて以来、これこそが人間の意識を次の段階へ変えていく鍵になると感じていました。
そしてその反転を語るヌーソロジーは、圧倒的で革新的な論理構造で、私の曖昧だった内と外の方向のイメージを明確なものにしてくれたのです。
ヌーソロジーには反転構造を持つ概念がたくさんあるのですが、私が皆さんにご紹介できそうな(私の理解のレベル的に)ものの中から「円心」と「人間の内面/外面」をご紹介いたしたいと思います。
【おことわり】
ただし、「意識が脳内に反転している」と言って「脳」を取り上げているのは私個人でありまして、ヌーソロジーにおいては脳を特に取り上げているわけではありませんので、半田広宣氏にご迷惑をおかけしないためにもこの点をはっきりとおことわりしておきます。
円心
ヌーソロジーの中でもおそらく核心的な部分となる概念に、「円心」があります。
これにはとてもいい動画があるので、そちらをご覧いただくほうが確かでしょう。
半田さんが出演されている公式の動画です。
ここ何年か、初心者向けにポップな感じでわかりやすく解説する試みをされているようで、この動画も非常にわかりやすいと思います。
しかし世の中には動画でお話を聞くよりも、文字を目で追っていったほうが分かるという方もおられるので(私もそっち寄り)、私が文章で頑張ってみようと思います。
第二部の2で、「丸チョン」の図をご紹介しました。
日月神示でも頻出する記号です。
半田さんの動画でも触れられていましたが、そもそも円の定義とは、中心となる定点があり、その定点から距離が等しい点の集合、或いは、等しい距離を保ったまま動く点の軌跡、などとされています。(私は子供の頃から「線の定義」が「点の集合」とされることには違和感があります。「線」とはイデアにおいて純粋に線だと感じるのです。点は点だし、線は線だと。)
以下は、動画とは同じ論法にならず、私なりの展開になります。
現時点での私の理解で書くものです。文責ももちろん私にあります。
円心とは、この丸チョンの円周が「定点から等しい距離を保ったまま動く点の軌跡」であるとした場合、その円周自体に中心点と同等の「視点」を見出したものということができます。
イデアの世界/虚空に、2つの点が存在するとします。つまり相対化された視点です。
そして、一つの点がもう一つの点の周囲を回り、円を描く※1とします。
※1: 私のイメージでは「円を描く」とは、イデア的には対象の全体性を走査するような意味を持っています。イデアとして完成されている対象を下次元に一面的に投影して、時間/空間的に感覚化して展開させ、ぐるっとスキャンするイメージです。そしてそれは同時に円心の原理に従って、反転した自己の全体性(対象に反射させた自己の全体性)を映し出すことにもなるのです。
この図において、白の点が黒の点の周囲を回ると、自動的に黒の点も白の円周を描くことになります。
(このとき、例え軌道が揺らいだとしても、ピッタリ一致して揺らいだ通りの軌跡がもう片方に描かれることにも注意してみてください。つまりガタガタの軌道で相手の周りを回ると、自分の周りにガタガタの軌跡が描かれるのです。)
双方の視点から見た場合、片方の動きは、そのまま鏡像となってもう片方に同じ運動を描き出すのです。
そして更に興味深いのは、白は黒を内側に見ながら円周を描き、そのとき黒は白を外側に見ているのですが、白に対して描く黒の軌跡は、白を内側に見た円周となることです。
白は黒を内側に見て円周を描いているつもりだったのに、黒に円周を描かれてしまうのです。
黒にとっては、白を外側に見ていたはずが、自分が白の外側を回っていたことにもなります。
相対する2つの点は、見事に内と外が反転した関係にあるのです。
そして丸チョンでも述べたように、中心点と円周は全くの対等です。
面白いのは、円とは原理的に中心点をもつものですので、円が一つ描かれただけで、そこに円心が生まれていることになります。
さらに円の内側の面の空間(面積にあたる部分)を「反環」と呼び、オコツトのシリウス言語で言う「等化」と「中和」が生まれている次元になります。
以下、オコツトが語ったシリウス言語の説明ですが、カタカナでルビをふってあるのがシリウス言語です。(オコツト情報は半田さんが主に音声で受信したものなので、漢字は半田さんが意味に合わせて当てたものなのです。)
- 円心とは、対化のこと。対化とは相対化、二元性のこと。負荷と反映の関係性。
- 等化とは、対化の本質を見抜いて一つに統合すること。進化の方向性に現れる意識の作用。
- 中和とは、対化も等化も区別がなくなって全てが同じ次元の延長線上(同一空間内)に並んで認識されている状態。等化の反作用として現れる次元。現在の地球人類が経験している世界観。
等化と中和は対化の関係にあります。
高次元の視点では、円ひとつとってみてもこれだけ(以上)の認識が重なっているもののようです。
現代の幾何学・数学的な視野では、中心点と円周に対等の視点を設けないので、1つの円から自動的に2つの円ができるとは想像しにくいでしょう。
半田さんの動画の中で、レクチャーを受けている島津さんが「相対性理論と一緒ですよね」(8:57)と言って、異なった慣性系から見た双方の視点と共通していることを挙げていましたが、正に仰る通りで、実は数学においてもこの視点は発見されて久しいのですが、未だ「相対性を超越した本質を見抜く」方向には応用が至らないようです。
神聖幾何学 ヴェシカ・パイシス
「2013:シリウス革命」の p.230 でも触れられていて、半田さんの動画でも紹介されていましたが、この円心の図は、西洋の神秘主義に伝わる神聖幾何学のヴェシカ・パイシス※2と同じものです。
※2: ヴェシカ・パイシス:Vesica piscis(単数形)、Vesica pisces(複数形)。発音について調べると、単数形の場合は「ヴェシカ・ピスケス」「ヴェシーカ・ピスケス」と聞こえる。複数形だと「ヴェシカ・パイシス」と聞こえる。サイトによっては単数形で「ヴェサイカ・ピシス」と発音した音声があった。ただ、これも英語圏での発音のようで、由来となるラテン語での発音として掲載されていた音声では、「ウェーシーカ・ピスキス」と聞こえた。
ヴェシカ・パイシスとはラテン語由来の言葉で、 Vesica pisces(複数形)、Vesica piscis(単数形) と書き、「魚の浮き袋」といった意味のようです。
円心の図形の何が魚の浮き袋かというと、二つの円が重なった部分の、上下が尖った楕円のように見える形がそう呼ばれているようです。
図3の中央に薄く緑に彩色した部分です。
キリスト教では、その浮き袋の部分にイエス・キリストが宿るとされており、検索してみても実際にこの尖った楕円の中にイエス・キリストが描かれたり彫られたりした像がたくさん出てきます。
宗教画としては、二つの円は省かれて、中心に重なった尖った楕円の部分だけが描かれているものが多いです。神聖幾何学として紹介されているものは二つの円が描かれています。
「シリウス革命」の記述から引用しますと、半田さんはこのように仰っています。
僕自身、円に対するこのような把握の仕方に少なからず興奮を覚えた。なぜなら、この「相互に中心を交差する二つの円」という形は、古代において「聖なる魚の浮き袋」と呼ばれ、イエス・キリストの象徴とされた図形でもあったからだ。「魚の浮き袋」という意味から想像力を膨らませば、それは人間の霊性の象徴である魚を、深い海の中から浮上させるという意味にとれないこともない。
「2013:シリウス革命」半田広宣 著 p.230
神聖幾何学はおそらく古代から秘教として受け継がれてきたもので、スピリチュアルの分野では神秘的な力をもつ図形や模様としてお守りのようにグッズ化されています。
幾何学好きの一部の人達は、この「浮き袋」に色々と線を引いたりして「ここに黄金比が現れる」などと分析をしています。
そういうのは私も興味があり、知識こそ無いものの、時間のある時に一人なんとなくやってみたりするものですが、しかし、
オコツトが示したこの円心の概念こそ、神聖幾何学を神聖たらしめる真の理解ではないでしょうか。
円心という概念/理解は、幾何学を意識とイデアの構造の象徴として説き明かしたもので、それ自体がチカラを生み出します。なぜなら意識を明確に意識することになるからです。
逆に言えば、その構造/カタチを明らかにし、意識に対応させる作業なしには何の意味も持たないものではないでしょうか。
私はヌーソロジーに出会うまでは、数学や幾何学や科学技術に何か深い意味を見出せずにいました(数霊や形霊の存在を知ってはいましたが)。
神示や美術・芸術、哲学やスピリチュアルのような人間の精神を高揚させるものを、それらの中には認められなかったのです。
しかしオコツトの言葉と半田さんの研究が、それは全くの偏見であったことを私に教えてくれたのでした。
要するにどんな分野であっても、意識の構造との繋がりを見出すことができれば、それこそがチカラになるのだと思います。
そしてもしかすると、幾何学が最も直接的に意識構造に繋がるものかもしれないと思うようになりました(もちろん断定はしません。個々人の性質にもよると思います)。
「浮き袋」の解釈
私が個人的な範囲で考えられる、ヴェシカ・パイシスの「浮き袋」の意義について少しお話したいと思います。
半田さんが直接「浮き袋」の意義について語っておられる資料を存じませんし、私は半田さんのサロンにも参加していないので詳しい情報にはアクセスできません。
それにこのサイトのこの記事は私個人によるものですので、他者の意見ばかりを書いていてもいけません。
「浮き袋」の意義を、これまで述べてまいりました「脳の反転構造」などと絡めてお話しします。
まず、円心という概念によれば、1つの円があればそこに2つの中心点が自然と見出されます。即ち「中心点」と「円周」の2つです。円周とは、中心点に相対的なもう一つの中心点(視点)の存在を意味しています。
考えてみていただきたいのですが、「中心点」が「中心」であるためには、この「円周」が必要であり、「点」をぐるりと全角度からスキャンするように周回する視点がなければ、「点」は「中心点」とはなりえません。従って、「中心点」と「円周」は、存在論的に一組で、一体のものであるということになります(こうした認識がヌーソロジーにおける「等化」であると考えます)。
また、ただの「点」というものも、イデア的には「全方位/全角度から観られた対象」であるという感覚が私にはあります※3。ですのでその感覚ですと、「点」が1つあるというだけで、必然的に「円周」も存在し、即ち「円心」が存在しているということにもなります。
※3: もっと言えば、「点」とは、意識の全て(全宇宙の本質)が「人間意識/脳内世界」側に反転したときに、「多」を構成するものとして認識される一つの局所。局所として人間に認識されるが、量子論と同じくその本質は非局所(つまり全宇宙)。
量子論では、観測された量子は粒子の姿をしており、観測されていない状態では波のような状態(波動)で空間に広がっているとされています。私はこの「粒子」という形態は、「観測されるもの」の状態であると考えています。全方向から観測されるべき状態、そして無限の状態から局所に落とし込まれた状態、または外から内へと反転して現れたときの状態が、「球体」あるいは「粒子」の形態であると考えています。観測するものの視線と、内側の空間が触れ合うところに「球面」が形成されるのだと思います。
そして円心が存在すれば、そこに「円が重なった部分」が生まれています。
円が重なった部分が、つまり「浮き袋」と呼ばれているわけですが、先ほども少し触れたように、オコツトによると「円の面積にあたる部分」は「反環」といい、「等化」と「中和」が生まれているところです。
詳しい説明は省きますが、この反環は、人間存在としての意識活動の現場であると見ていいでしょう。我々の意識(自我意識)そのものです。
- 円心とは、対化のこと。対化とは相対化、二元性のこと。負荷と反映の関係性。
- 等化とは、対化の本質を見抜いて一つに統合すること。進化の方向性に現れる意識の作用。
- 中和とは、対化も等化も区別がなくなって全てが同じ次元の延長線上(同一空間内)に並んで認識されている状態。等化の反作用として現れる次元。現在の地球人類が経験している世界観。
こう解釈することで自然とわかることは、2つの視点のそれぞれから生じる反環が重なっている部分とは、
「自己が他者と関わることで生じる意識の場」
の象徴ではないかということです。
人間は言うまでもなく社会的な存在であり、そもそも自我を生み出すためには他者の存在が不可欠です。オギャーと生まれた赤ちゃんは放置されれば生きていけないので、父母の慈愛とお世話によって育てられるものですし、そもそも赤ちゃんが赤ちゃんを自分で産むわけにはいかず、必ず父母という他者から産まれています。
この「自己と他者の意識が交わる場」の中に、等化と中和が生み出されているということは、この場を足場として人間の意識は進化の歩みを進めていることになります。
赤ちゃんは父母からの呼びかけを認識することで「私」の輪郭を形成していきます※4(父母が呼びかける視線と意志の先に「私」がいること、「ここに”私”がいる」ことを徐々に認識していく)。そして身体を認識し、家族やお友達との交流を通して社会的な人格(先天的/後天的の両方)を発露させていきます。
ここで形成された「私の輪郭」を成長させながら、様々な葛藤と気づきを経て、方向転換し、真実の自己へと意識を反転させていくのでしょう。これが人間存在が辿る自然の道筋です。
※4: 人間の自我意識は、他者からの働きかけによって発芽するものなのです。自我意識とは、「他者に反射させた自己」の意識であると私は考えており、今後の記事においても何度でも語っていきたいと思っています。この意味において、自我意識とは「粒子」であると言えます。自我意識は粒子であり、物質世界を生み出すものです。つまり、自我意識=粒子=物質=客体=他者、となります。これらはすべて同じ働きによって生じる現象なのです。
その場が「浮き袋」であるというわけです。
この浮き袋の中で、人間は自己と他者の葛藤を生み出し、社会・国家を生み出し、物語を生み出し、幸せや悲しみを経験し、知性と感性を振り絞って世界の真理に肉迫し、進化の方向(精神への方向)を見出せた者はやがて自己と他者の一体性に目覚め、中和された世界の中に眠る者は物質の夢に見入ったままでいる…。
これが「浮き袋」というものの意義であります。そしてキリスト教の教えでは、この浮き袋にイエス・キリストが宿ると伝えられています。
「イエス・キリスト」というと個人名として認識され、実際にキリスト教の顕教(表向き/一般向けの教義)的な部分ではイエスへの個人崇拝が主に行われていると思いますが、
しかし秘教的な教えでは確実に個人崇拝などは教えられず、「キリスト意識」そのものについて教えられているはずだと私は考えます。
あなたたちはイエスという現象我を考えてはならない、またこのような現象我を想像してもならない。そうすることは神我という真理についてあなたたちを盲目にするからである。神我は父の一人子、あらゆる現象の背後にある力である。
イエス・キリストの言葉 「心身の神癒 ―主、再び語り給う―」M ・マクドナルド・ベイン著 p.345
ただし、脳内反転の概念から注釈を入れますと、反環が「重なっている」と言っても、それは同一空間を共有している意味で「重なって」いるわけではないことになります。
脳内反転の構造では、脳内に広がって生成されている空間は、その自我意識/個人特有の空間で、宇宙の果てまでがその個人の(生成している)世界であることになります。
第二部の2で、ゲームやウェブサイトに例えましたが、個々の自我意識をアカウントとし、生成された客観世界/空間をディスプレイとブラウザに例えました。
個々人が持つディスプレイ/ブラウザ(どちらかというとブラウザが脳の役割と言ってよい)に幻影として世界は映し出されるので、知覚されている世界の像は個々人それぞれの脳内にあるとイメージしています。
「重なっている」「共有している」部分は常に背後側、意識の中にあるプログラムが共有されているのです。そこから「自己」も「他者」も生まれてきている源の世界であり、共有もなにも本来一体の世界なのですから。
ですからまさに、この意識の世界こそが「キリスト意識」であると言えるのです。
ヴェシカ・パイシスにおける「円が重なった部分」とは、
個別化された世界ではなく、共有される意識の場ですので、
即ち背後の意識の世界を示唆するものであり、
キリスト意識への入り口の象徴であると言って良いでしょう。
あなたたちとわたしとを引き離している扉を開くためにわたしは来たのである。
それは外なる感覚という扉である。あなたたちはこの外なるものの中に住んできたために、内なるものが分からなかったのである。
イエス・キリスト「心身の神癒 ―主、再び語り給う― 」M・マクドナルド・ベイン著 霞ヶ関書房 p.343
もう一つ言うならば、この浮き袋の形は、女性器の形と言えなくもないでしょう。
これがキリスト意識への入り口なのか、キリスト意識の復活の出口なのか、どちらでも構いませんが、
何か潜在的で神聖なものごとの誕生の扉という解釈もできそうです。
ヴェシカ・パイシスの「浮き袋」は、二つの相対する円の中心点同士で結ばれています。相対する中心点同士を直線で結ぶと、それは双方の円の半径を示す線分となります。
数学で半径を文字で表すときに「radius」の「r」を用いますが、語源はラテン語の「スポーク」或いは「光線」を意味する言葉のようです。
【2】意識反転 第二部の1 主観の中盤において、私は「光は相対性の間にしか存在しない現象」であると述べましたが、ヴェシカ・パイシスの相対する中心点同士を結ぶ線分が radius となっていることには何か感じるものがあります。
さらに、この記事では、ヴェシカ・パイシスの円の面積にあたる部分のことを、オコツトは「反環」と呼び、そこは「等化」と「中和」が生まれている次元であることを述べました。その反環とはつまり、人間の意識においては自我意識が働いている意識空間のことかと思われます。
反環=円の面積ですが、数学では円の面積を求めるときに πr2 (円周率π × 半径rの2乗) で計算をします。円周率は無理数で分数でも表すことができず、3.141592…と小数が不規則に割り切れないまま無限に続く数です。従って円周率を用いて求める円の面積も正確には求まらず、必ず近似値で表すことになります。
人類が知覚するこの宇宙では、円周率とその面積について確かな答えを出せないのです。
イデア的に「円」とは、おそらく「完全性」「全体性」「調和」といった意味があると私は考えています。人類が円を確かめられないということは、人類がこの世界で完全を達成/表現できないことの一つの象徴のようだと思うのです。
オコツトは人間の意識について「進化は意識の葛藤が生み出すのです。葛藤がないところに進化は生まれません。人間の持った力は不確実であるがゆえに葛藤が生まれています。」と語っていました。また、人間とは「反環がカタチを持たないもの」「確実な次元を持たないもの」とも言っています。反環の面積を無理数を用いて計算し、正確には求まらないというところに「さもありなん」という感慨があります。
もう一つ推測ですが、無理数と言えば「√2」があります。正方形の対角線の長さを求めるときは「正方形の一辺の長さ × √2」で計算します。詳しくは述べませんが、正方形の対角線とは(オコツト情報から察するに)他者側の意識に背後から回り込む意味、或いはシリウス言語の「位置の交換」に関係する働きではないかとも考えられます。であるとすれば、その対角線も確かに求められないとなると、これもやはり納得せざるを得ません。
自己のためだけに人生をあくせくするのではなく、
他者への依存と癒着によって人生を終わらせるのでもなく、
その両者を超越し、両者を顕現させている背後のチカラに意識の重心を移すことに人間の命の意味はあり、
その背後のチカラへの移行(次元上昇)が「浮上する魚」を意味しており、
キリスト意識の象徴とされている理由もここにあるのではないかと私は考えます。
そしてオコツトは、自己(ψ5)と他者(ψ6)を等化した意識こそが愛(ψ7)であると伝えています。
イエス・キリストの教えとして「愛」という言葉が強調され繰り返されますが、その「愛」の本当の意味は、「自己」や「他者」などという自我意識が生み出す「個人」という認識を超越し、全てを一体として観ること、全てが私となることなのです。
「全てが私」という認識になるのですから、そもそも「私」について深く究明していなければ、「全てが浅い」にしかならないはずです。「私」を深めることが「世界」を深めることなのです。
愛というのは、「ひとに優しくすること」とか「自然の生き物を慈しむ」とか「キラキラした光をみんなに送る」などといったことに留まるものではありません。それらも含みますがその本質は、
愛とは、人間存在の意識の本質(相対性)に迫り、それを乗り越え、まったく次元の違う認識に目覚めること、またその過程、またはその意識の場そのものを意味するのです。
自己の精神における絶え間ない葛藤と研鑽がなければ、本当の愛の次元に到達することはできないのではないでしょうか。
オコツトの言葉です。
進化は意識の葛藤が生み出すのです。葛藤がないところに進化は生まれません。人間の持った力は不確実であるがゆえに葛藤が生まれています。それが調整を覚醒へと変えていく力になるのです。
「2013:シリウス革命」半田広宣 著 p.144
「人間の持った力は不確実」であるがゆえに、愚かで、苦労もたくさんして、人を傷つけたり傷つけられたり、楽しいことの何倍も悲しいことや辛いことを経験するわけです。
いわば、人間とはそういう存在なのだということです。
私は現今のスピリチュアルやチャネリングに対して常に問題意識をもっているのですが、スピリチュアルが好きな皆さんの多くが、あまりにも苦しみに対して逃避的すぎるのではないかと見ています。
スピリチュアルリーダーと呼ばれる方々も、そうした需要に合わせたメッセージばかりを伝えているようで、どうも(要約すれば)
「私たちスピリチュアルの人々は、世俗を超越したことを考えているのだから、人間の汚い部分には目を向ける必要はなく、そんな悪人とは関わらず距離をとって、(漠然とした)全世界の幸せを願い、幸せを実現するためだけに心とお金を使っていればいい」
と言っているように、私には聞こえます。
さらには、「スピリチュアルに興味のある我々は、一般の人々よりもセンスがあって偉いのだから、もうかなりのことは分かっていて、そんなに深く考えたりする必要もないのだ」
「チャネリングや Q の情報でも、待っていれば上手くいくと言われているから、あとは備蓄でもして、光の存在達がピカピカ光りながら助けに来てくれるのを待っていよう」
くらいに私には見えています。(少し意地悪で的外れでしょうか、どうでしょう)
チャネリングの内容は、チャネラー本人の意識/世界観/認識の状態に大きく依存しています。チャネリングの内容の半分以上は、そのチャネラーが持つ意識の方向性に引っ張られたものであると言えます。
大本の出口王仁三郎なども神憑りの修行を信徒にさせていましたが、「審神(さにわ)」といって、懸ってきた霊がどのような素性のものかを確かめる作業を重視していました。
闇雲に不可視の存在と繋がろうとする人の意識(救いを求めるようなネガティブな心理)を利用する我の強い神霊はいくらでもいるようです。
日月神示では「自分を審神せよ」と言っています。自分を審神できない人が、何か不可視の存在と繋がろうとすると、結局自己が確立されていないので簡単に利用されてしまうでしょう。そしてそのメッセージに、審神できない人々が集まってくるのです。
昨今のチャネリングはあまりにも無責任すぎます。
しかし本当にそれでいいのかな、という感覚が拭えません。
皆さんそれぞれに苦労は必ずされていると思います。それが人間ですから。
しかしその時に、どうしてそこから逃避する方向にばかり向くのでしょう。
私が申し上げているのはズバリ「引き寄せの法則」や「宇宙人の介入で地球は救われる」、「ソーラーフラッシュでアセンション」「宇宙人の技術のQFSでお金が正当に管理される」といったような話についてです。
それらの話が本当に実現するかどうかは一旦置いといて、
まず人生に苦しみがやってきたとき、「なぜこれは苦しいのだろう」「苦しみとは何だろう」と問うて、自らの心の構造を解き明かそうという意識が必要なのではないかと私は考えてきたのですが、いかがでしょうか。
はっきり申し上げて、心が外へ向かっているから、物質的な世界観に引っ張られているから、自己の精神に迫ることなく、外からの助けで自動的にどうにか助かる方向の話にばかり群がっているのではないでしょうか。
割と多くの方々が、今私が申し上げているような状態であると認識しているのですが。
しかしそれで本当にあなたご自身の意識が次元上昇すると考えておられるのでしょうか。
そもそも、「あなたは神」であり、「すべては神の御意志」であるという言葉をお聞きになったことはないでしょうか。
その意味するところは、「あなたが経験することはすべて神の御意志であり、あなたはその神であり、その経験は自らに与えた贈り物」「あなたに辛く当たるあの人も、同じく神であり、愛の化身であり、あなた自身なのだ」ということになりはしないでしょうか。
私はお説教しているのではないのです。
こうして意識が反転していることを見出したからには、そこから見える景色をお伝えしなければならないという使命感と言いますか、余計なお節介と言えばそれまでですけれども、なんとか多くの皆さんに、より真実に即した生き方を伝えたいという、私の率直な衝動ではあるのです。
「黄金時代」とか「風の時代」とか「ミロクの世」というのは、
今目の前にある葛藤を突き抜けて、そこから真理を抽出して、意識の位置が違う次元に移行した人々が、力を合わせて創り上げていく世界のことです。
ある日空が光ってふわーっとなって気が付いたら宇宙人とお友達みたいなことではないのですよ。
自己の心の方向にしか、神へ通じる道はないのです。
以上が、「浮き袋」の解釈です。
人間の内面/人間の外面
オコツト:[前略] あなたがたにおいては、真実の意味においての宇宙の内と外が逆転してしまっているのです。本当の外部宇宙はあなたがたの心の方向にあると考えたほうがいいでしょう。否、正確に言えば、あなたがたの思考や記憶が存在している空間を発見したときの世界、それが本当の意味での人間の外部世界に至る入口なのです。
半田さん:本当の外部とは僕ら人間の心の方向にある……?
「2013:シリウス革命」半田広宣 著 p.222 (名称など一部を筆者が改変)
上記のオコツトと半田広宣氏の会話は、「人間の内面」と「人間の外面」について語られていた中からの抜粋です。
オコツトは、人間が「外」に見ている世界、つまり目の前に広がるこの物質世界のことを「人間の内面」と呼び、人間が通常「内側」と表現する心の世界を「人間の外面(に至る入口)」と呼びました。
オコツトのその他の情報と同様に、一瞬「?」となる概念ではあるのですが、私にとっては少し考えて、ピンとくるものがありました。
「脳内反転」です。
まずは私の理解の範囲で、ヌーソロジーにおける「人間の内面/人間の外面」を簡単にご説明したいと思います。
詳しく語ろうとすると、これは宇宙の大きな区分ですので、関連する概念が膨大になりますし、私の理解もとてもそこまでには至っておりません。
- 人間の内面 …
人間が物質世界と呼ぶ世界。客体が存在する世界。宇宙空間もすべて内面。時間と空間という認識は、この人間の内面に対化として生み出されている。 - 人間の外面 …
意識側の世界。オコツトによると「人間が持った意識とはカタチの反響」であり、それは「高次元空間における幾何学に由来」しているという。その高次元空間が外面であると言える。(おそらく内面から反転した外面の世界は、意識であるだけに無限の世界で、詳しく語った言葉を探せなかった)
この人間の内面の中に、時間と空間が展開しており、客体が存在しています。客体と一言でいっても、それはつまり物質であり、他者であり、宇宙空間であり、人間が通常「自分ではない」と考えているものの全てです。
今我々の目の前に、宇宙の果てまでひと続きに広がっているこの空間は、すべて人間存在の中に生み出されている「有機体の妄映」(要するに幻影だと思って良い。カタカナのルビがふってある言葉はオコツトのシリウス言語であり、地球人類の概念ではない)であって、その反対側の世界とは、人間の心の方向へと向かった先にあるというのです。
「オコツトのアドバイスによれば、人間の意識が『人間の外面』に出るためには、まずは『人間の内面』を等化しなければならないという。」「2013:シリウス革命」p.225
このように、人間は自ずとこの外面へと向かって進化するよう方向づけられているようです。心の方向へ向かってということです。
人間の内面の対化を等化するということは、時間と空間の対化を等化するということだと半田さんも書いていますが、私の今の感覚ですと、時間と空間とは、自己と他者との差異の間に生み出されているものなので、結局は自己と他者の等化ということになるのではないかと思います。
オコツトは自己ψ5と他者ψ6の対化のことを宇宙全体(意識全体)における意味での「対化の本質」と言い※5ました。自己/他者とは、宇宙に生み出された相対性の核心部分なのです。
そしてそれを等化した愛ψ7とは「等化の本質」であるとも言って※6います。
※5,※6: 「2013:シリウス革命」半田広宣 著 p.303
あまりヌーソロジーの解説をやろうとしてもすぐに無理が出てきてしまいますので、この辺りといたしまして、私の脳内反転へと話頭を転じてみたいと思います。
脳内に広がる内面世界
ともかくヌーソロジーには、「反転」の構造があちこちに散りばめられており、宇宙を生み出している意識は、要所々々に反転を用いて世界を顕現させているようです。
世界はひと続きにどこまでも広がっているのではないのです。
科学もスピリチュアルもこの点においては、世界の構造をひと続きに見ている節があり、科学においては例え量子論の虚数の世界というも、それは人間世界の外に広がる世界の中での変化でありますし、スピリチュアルの次元の違いというも、それは「エネルギーの周波数の違い」というひと続きの中での変化なのです。
しかし次元の違いの構造に「反転」が入ってくるとなると、今いる次元から次の次元へ進むには、ただ頑張ってどこまでも歩いていくだけでは到達できない何かがありそうです。
特異点を見出して、そこを通過しなければならないのです。
そしてその特異点とは、「2001年 宇宙の旅」で主人公のボーマンが通過したような、宇宙のどこか遠いところにある物理的な入口でもないようなのです。
内外の方向軸を打ち立てる
私の脳内反転の話になりますと、この反転に気づいて思索を続けるうちに、これはとても重要なキーポイントになる概念だと思うようになりました。
脳内反転に気づくには、前段階があったように思い出します。
まず私は、「世界には方向軸の概念があり、『東西南北』や『上下』や『前後』『左右』といった方向の分類があるが、どうして『内外』がそれら方向軸の概念の中に入っていないのだろう」と考えていました。「上下左右、前後内外などと言うべきだろう」と。
というよりも、「内外」こそが一番重要な方向の概念なのではないかと。
というのも、やはり外側の物質世界へと向かう心の働きと、精神的な内面の世界へと向かう働きには明確な違いがあり、この違いをハッキリと意識できないことには、人間が精神に向き合うことが希薄なままになると考えていたのでした。
そして精神に向き合わない限り、この世界が良い方向へ向くことは絶対にないと思っていたのです。
この「内外」という方向軸を強く意識していた時期があったのです。
さらにそれ以前と言いますか、私が子供の頃、11歳か12歳の頃ですが、
自分というものは脳ミソのことを言っているのではないかと考えていた時期がありました。
「脳ミソで考えて手を動かして、脳ミソで考えて話をしているのだから、つまりぼくは脳ミソだろう」という単純な考えです。
”ぼく”に付けられた名前も実は脳ミソに付けられた名前で、友達の〇〇君も、その脳ミソに付けられた名前なのだ…とかです。
そしておそらく、内外についての思索をなんとなく続けていた時期だったと思うのですが、子供の頃からの脳ミソの考えのカケラが残っていたのでしょうか、突然、全ての感覚、いわゆる五感が脳で生み出されていて、脳の中に広がっている、今感じているこの世界は脳の中に広がっている!!!という強烈な気づきが発生し、あまりに急な世界観の大転換に体中が興奮で打ち震え、熱くなって力が入ったままになってしまったのです。自転車に乗っていたときだったと思います。(何歳だったでしょう、十代の後半だった記憶はあるのですが)
科学的にも論理的にも考えて間違いはなく、とにかくこれは大変だ、みんなこのことに気づいていないぞ、という焦りのような、でも誇らしいような感覚で、しばらくは興奮が収まりませんでした。
しかし、人に話しても分かってはもらえないだろうというのと、そもそもどうやって上手く説明したらいいのかも見当もつかないまま、今こうしてこの記事を書くまで、誰にも説明を試みないまま過ごしてきてしまいました。
ともかく、脳内反転しているからといって、じゃあ何が大事なのかと言いますと、
この「内外の方向軸」が極めて明確になるという一点
に尽きるのではないかと思います。
内外の方向軸を打ち立てることによって、より反転した意識の構造も明確になり、我々は特異点を通過して、いよいよ本来の居場所へと帰還できるのではないかと思うのです。