意識の位置を反転させて原点に帰還する/人間の外面こそ人間の本体/抽象が実体、具象が反映
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反転とは
第二部の1の最後で、「私」に意識の焦点を合わせましょうと提案しました。
あなたのその「私」と感じている意識の最も純粋な中心点が、そのままいわゆる「神」であるということも示しました。
ここから、本格的に意識が反転している構造を説き明かしていきたいと思いますが、まず、
第一部をご覧いただいて、おそらく多くの方が疑問に思われるであろうことは、
「脳機能によって脳内で世界が知覚/生成されているとして、
そして世界は脳内に広がっているとしても、
しかし、この世界のデザインは脳の知覚以前にすでに出来上がっているではないか。
我々個々人は世界をデザインしておらず、その既存の、デザインされた世界を他者とも共有している。
ということは、やはり脳内の知覚以前に世界は存在しているはずだ。
脳は、その既存の世界を知覚しているだけなのだから、やはり客体が実存として脳の外にあるのだと言える」
ということではないでしょうか。…どうでしょうか。別にそうでもないでしょうか。
実は上記の「疑問」は、そのまま私がもっている疑問でありまして、ここからの記事はこの「疑問」に沿って展開して参ります。
私はこの脳の反転を経験してから、これをどう理解して世界観を展開していけばいいのか、暫くのあいだ漠然としたイメージしか持てなかったのですが、その後ピッタリと合致したのが半田広宣さんのヌーソロジーでした。
これまでの「意識反転」の記事は、論拠の大半を科学に依っていましたが、さすがにここからは科学の範疇を超えてしまいます。
ですから自然と、私が幼少の頃から培ってきた直観の世界観と、スピリチュアル、とりわけヌーソロジーの世界観などを拝借して、展開することといたします。
しかし、ここまで読み進められた皆さんにとっても、かなり興味深い世界が開けてくると自負しておりますので、どうぞお付き合いくださいますと幸いです。
空間の反転 ヌーソロジーから
私がヌーソロジーを知ったとき、それは書店で「シリウス革命」を手に取ってサラサラと立ち読みしたときでしたが、「これはとんでもないものを見つけた」とすぐに直観し、購入して読みました。
結果、私個人の思想史の中で最大の衝撃となるものでした。
ヌーソロジーのほとんどの内容は、私の思考も想像もまるで及ばない、まさに人間という枠の外から来たようなものですが、しかしその中にもいくつか、私の世界観と共通するものがあったのです。
その一つが「反転」です。
ヌーソロジーに、他のスピリチュアルとは一線を画すものがあるとすれば、それが「反転」の概念だと思います(一線を画すものだらけのような気もします)。
第一部でも触れましたが、私がここで述べるのは、反転は反転でも、
球の反転 です。
この球の反転の概念については、馴染みのない方も多いかと思われますので、どういう反転を私が想定しているのかをはっきりさせるために、いくつかヌーソロジーの半田広宣さんの著書を参照して解説したいと思います。
ビッグバンの反転
ここで半田さんの著書を元に図を作ってみました。
この内容はヌーソロジーそのものではないですが、図1はヌーソロジーのチャネリング情報源である「冥王星のオコツト」が語った、ビッグバン理論における特異点の考え方です。
図2は、オコツトのチャネリング以前から半田さんが思考していたタキオン粒子の概念図です。
ヌーソロジーの反転の本格的なものは後述します。
現代科学で主流になっている宇宙誕生の理論、ビッグバン理論については、半田さん自身が懐疑的であり、オコツトに訊いたところ以下のような答えでした。
半田さん:地球の物理学では、約150億年前に起こったとされるビッグバンによって、この宇宙が誕生したと説明していますが、それは本当なのでしょうか。
オコツト:それは付帯質※が作り出した誤ったイメージです。ほとんど本来の意味を失っています。
半田さん:ということは、ビッグバンなどという出来事はなかったということなのですか。
オコツト:なかったということではなく、物質的なイメージで描かれているビッグバンにはほとんど意味がないと言っているのです。
「2013: シリウス革命」pp.208-209 より
※筆者注 付帯質:オコツトが伝えた膨大なシリウス言語の一つ。人間が「物質」と呼んでいるもの (p.23)。精神の反対物 (p.29)。別名「こころ」(p.29)。「真実の人間」にとっての「こころ」(pp.529-530)。人間という存在自体が付帯質 (p.28)。「あなた」「わたし」といった「個体」や「他者」も付帯質が生み出している (p.27)。
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ちなみにオコツトは、現在(現次元)の宇宙は誕生してからまだ6500年ほどしか経過していないと言っており、その「宇宙」というのも、この宇宙には太陽系しか存在せず、その外の銀河系とは太陽系が別次元に映し出されたもので、それらは全く同一のものであると言っています。そもそも物質も生命も意識によって生み出されていると言っているので、宇宙の誕生を物理的に説明したところで何の意味ももたないということでしょう。(pp.147-149)
ビッグバンについて簡単に説明しますと、現在の宇宙誕生の物語として主流になっている理論で、今からおよそ138億年前、極小の一点に量子論的な「ゆらぎ」が生じ、そこから急激に空間が膨張し、超高温・超高密度の”火の玉”が生じて大爆発を起こし、膨張を続けて現在の宇宙の姿が誕生したというものです。
その急膨張の起点となった一点を特異点※1と言うのですが、この特異点の考え方を、オコツトは一般的なものとは全く異なった考え方で示してくれました。
図1は、半田さんの著書にある図を模倣して私が作成し、説明文も付け加えました。
※1: 特異点という言葉は、物理学やその他の分野でも様々な意味で使われる。物理学では主に、通常の理論や数式が成り立たなくなる場所、その状態をいう。
インフレーション理論においては、宇宙は誕生の直後に急膨張し、温度がゼロに近づいてから、再び温度が上昇してビッグバンの火の玉になったとされ、宇宙誕生の瞬間とビッグバン自体は区別されているようです。
■見えてきた宇宙のはじまり(東京大学) ■ビックバンモデルを正しく理解する(東京大学, PDF)
人間は、外の世界を「自分の外に広がる無限大の空間」と決めつけて、自分を一個の生物の個体と決めつけているので、極小の特異点から爆発して広がった宇宙を想定してみたときに、やはりその空間を「外に広がる広い空間」のように観念してしまうのです。
しかし図1で示したように、そのビッグバン理論に従って考えてみれば、そもそも特異点とは、宇宙の端っこの球面全体のことになるはずだと、オコツトは指摘しています。
ビッグバン理論における宇宙空間の膨張とは、「空間」そのものが膨張するものですので、宇宙の外には空間は無いものとして想定しています。
つまり、すでに無限大の空間があって、その中に物質や星々が誕生して散らばっていったのではなく、それらを内包する空間そのものが膨らんでいったのだとしています(その膨張する空間の中を物質が移動/運動している)。
しかし、特異点の外に空間が無いのであれば、その特異点の”大きさ”は無限として設定できます。
「無限」とは、広さなど無いという意味です。そんな尺度も基準も存在しないという意味です。
よく無限というと、「どこまでもどこまでも果てしなくずっと続く」とか、「計り知れないほど大きな」とかいう意味で使われることが多い気がしますが、それは基準と尺度がある前提の言葉なので無限ではありません。それとは次元が違うのです。
例えば、虚空に浮かぶ一つの三角形を想像してみてください。
あなたがその三角形の一辺に「10cm」などと「長さ/尺度」を設定しないかぎり、その三角形は如何様にも拡大・縮小することができますし、そもそも最初に想像を浮かべた時点で、その三角形は無限なのです。
ただ純粋に抽象的な形としての三角形なのです。イデア※2です。
それが「無限」であり、私たちの「想像」とは本来無限であるものなのです。
ビッグバン理論の特異点が、現在の「宇宙の広さ」「半径138億光年」を包含するとしても、論理的には破綻はないはずだ(半径138億光年も、特異点の中での基準における尺度なので)と私は考えるのですが、皆さんはいかがでしょうか。
※2: イデアについてのWikipediaの解説。『語源 「イデア」という言葉は「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。(中略)プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。』閲覧:2024.11.10
こう考えると、私たち地球人類は、自らが特異点と設定したものの中に存在していることになり、その設定の意味に自分たちが気づいていないことになるのです。
これは、人間はものごとを反転して認識する存在であることの一つの証左となると私は考えています。
この意味において、極大と極小或いは無限大と無限小は、人間存在(=物質世界)が本来一つであるものに極性をもたせて両極に分離させたときの、その双方の名前に過ぎない、と言うことができます。
天球面と特異点が同じものであったという意味では、天(極大)と 点(極小)は同じものであるとも言えるかもしれません。
もちろん、ビッグバン理論自体がまったく見当はずれの宇宙論である可能性もありますが、マクロとミクロは同じものであることはオコツトの世界観によっても示唆されています。例えば、太陽系とは原子の逆写像であり、それらは全く同じものであると言います。オコツトの視点ではある一つのものが、人間の意識次元においては太陽系と原子に分かれて認識されているということです。(「2013:シリウス革命」p.142)。
空間の反転
図2は、半田さんがオコツトとのチャネリング以前から思考していた、タキオン粒子という超光速で運動する仮説上の粒子と、超光速の空間認識を図にしたものです。半田さんが作成したものを模倣して私が作りました。
特殊相対性理論によると、光速に近づくほど物体は進行方向に(空間的に)縮んでいき、光速に至ると進行方向の長さはゼロになります(だんだんペチャンコになって遂には無くなって見えるということ。異なった慣性系から観測した場合)。
この進行方向の長さが縮んで観測される現象をローレンツ収縮といいます。
タキオン粒子は超光速でしか運動できないと想定されているので、光速を超えるタキオンが運動する空間を、物理的にどのように描像(思い描く)すれば良いかを半田さんは考え続けていたのだそうです。
そのイメージが図2です。半田さんは、光速を超えた先にある空間を、内部空間と外部空間が入れ替わった空間として描像していました。
光速に至れば長さゼロになって実質的に無くなったように観測されますが、さらに光速を超えると、ローレンツ収縮で縮みきったあと、空間の中心点を縮む方向に突き抜けて、外部と内部が入れ替わるものとしてイメージしたのです。
オコツトによれば、半田さんがこのチャネリング情報(”シリウス”が発信し、冥王星を中継している)を受信できたのは、半田さんがタキオン空間の内部と外部の反転を意識していたからなのだそうです。
この反転を意識する準備が整っていたからこそ、半田さんはこれらの情報にアクセスできた、ということは、やはり高次元認識の獲得には「反転」がキーワードになってくるということではないでしょうか。
半田さんの著書から引用します。読みやすくなるよう名前を付記して改行もしています。
オコツト「[前略] あなたは超光速の世界のイメージについていくつかのモデルを組み立てておられました。
そして、実空間と虚空間の関係性を対象的に見出だす意識の位置を発見されたのです。
そのことによってシリウスのハーベスト・ビーコンの焦点化が容易になったというわけです。
あなたがタキオンと呼んでいるものは、地球人の意識の方向性に反転作用を作り出す力だと考えてください。
意識の方向の反転によって生み出されてくる新しい形態概念を確実化させることが、変換人型ゲシュタルトの第一プログラムです。」
半田さん「つまり、タキオン空間とは、僕たちの内部、外部という空間認識を反転させた世界と考えてよいのですね」
オコツト「はい、現段階ではそのように考えられて結構です。人間の意識の方向性の反転によって、変換人の意識が生み出されてきます」
「2013:人類が神を見る日 アドバンスト・エディション」半田広宣 著 p.34
もう一度、図2を載せます。よく眺めてみましょう。
通常私たちが感覚している外部の空間だったものが、超光速のタキオン空間においては内部となって丸め込まれています。
内部に丸め込まれたこの空間は、もう一度言いますが、私たちが外部空間として感覚している空間です。
つまり全宇宙です。
球の反転
私が伝えたい「球の反転」の概念を極力単純化したものが、図3です。
左右の丸を球体としてイメージしていただきたいのですが、左の球の内側は青い空間で、外には赤い空間が無限に広がっています。
それが反転した右の球では、左の球の内部世界だった青い空間が外部へと無限に広がっており、左の外部世界として無限に広がっていた赤い空間が内部へと丸め込まれています。
そしてこれも肝心なところなのですが、この球の内部もまた無限であるということです。
脳内へ
先ほど、三角形のイメージをしていただきましたが、虚空に浮かべた三角形のように、想像上のものは本質的に無限です。
いくら大きく大きく膨らませていっても、小さく小さく縮小させていっても、そもそも何の基準もないので、限りがないのです。
物質科学一辺倒の現代人の世界観では、人間の頭の中の「想像」などというものには、娯楽に用いる以外の価値は見出されていないので、意識の本質が全く分からなくなっているのですが、
この「想像できること」そのものが宇宙の本質を反映する神秘なのです。
神秘といっても、四六時中、誰の頭のなかでも想像が繰り広げられているので、秘密でもなんでもないのですが、その意味するものに気づいている人が僅かしかいないということです。
ですから今この時から、「想像」のほうへ価値の比重を移してください。
意識のほうを意識してください。
物質とか、他人とか、客観的世界の広がりばかりに気を取られている人が多いので、なかなか内側への呼びかけに気づいてもらえないのですが(スピリチュアルの人々もそうです)、そちらの世界が「幻想」であり「反映」であることは、洋の東西を問わず、古代からの教えでずっと繰り返されてきていることなので、もうそろそろいいのではないでしょうか。
もう一度言いますが、想像は無限ですので、そのように想像してみてください。
わざわざ物理的な世界観に引っ張られなくてもいいのです。
物理的な球体を破壊することなく内と外を反転させることはできないでしょうが、想像上で反転させることならできます。
想像でできるということは、想像でできるということです。
物理的にできなくても気にすることではありません。
想像でできればそれで十分です。
それこそが本質なのです。
本質を損なうことなく、純粋に想像してみましょう。
あなたが目で見ている世界は、あなたの脳内の視覚野で生成された映像ですので、あなたは脳内を見ています。
あなたが手や足で触れている物は、あなたの脳内で感覚化された触覚なので、あなたは脳内を触っています。
あなたが聴いている音は、あなたの脳内で生成された音なので、あなたは脳内を聴いています。
あなたが嗅いでいる匂いは、あなたの脳内で感覚化された嗅覚なので、あなたは脳内を匂っています。
あなたが味わっている味は、あなたの脳内で感覚化された味覚なので、あなたは脳内を味わっています。
あなたが肉体で感じていることの全ては、脳内で処理され、生成された像なのです。
それらの感覚に対応した脳の部位や神経が損傷すると、その感覚は失われてしまうことから分かるように、
そしてまた、手や足が失われても、脳内で手や足の感覚が持続している(幻肢)ことからも分かるように、
それら脳機能がそれぞれの感覚を生み出しており、その統合されたものが人体の感覚であると言えます。
あなたの目の前に広がる世界は、あなたの脳内に広がる世界です。
これが球の反転です。
幾何学や数学など、図形を扱う学問が、結局はただの物理的な世界/客観世界のみで終わってしまうのは、人類が主観を忘れてしまっているからです。主観の「私」という意識をもったまま、想像で図形をなぞったり、動かしたりしていると、それがそのまま意識の構造を操作していることに気づくことができます。
今私が説明した「球の反転」というものは、ただの客体である物理的な球体を操作するのではなく、ましてや想像上のお遊びでもありません。図形や幾何学は、元々人間が想像と直観で抽象的に思い描くものですが、それは即ち、人間の意識構造を直接的に反映しているということなのです。私という意識/主観を保ったまま、球の反転を想像することで、自らの意識空間も反転させることができるのです。
スピリチュアルには「神聖幾何学」という言葉がありますが、この意味においては神聖でない幾何学など存在しません。ある形が神秘的な力をもっているというより、「カタチをもった意識が力をもつ」というほうが真実に近いと思っています。力をもっているのは常に意識側です。全ては意識に繋がっているか否か、意識そのものとして意識しているかにかかっているのです。
脳の外へ 意識の本来の位置
いよいよ脳の外側の話をするときがきました。
引っ張りすぎた感はありますが、言葉にするのがあまりにも難しく感じているのは事実です。
図4は、私が想定している脳の外側、つまり物質世界として反転する前にある意識の世界を、どうにかイメージに近いところで妥協した図です。
とにかく映像にすること自体が客体化ですので、「見た目」の印象は忘れていただいて、抽象の世界であるということだけご理解いただければそれで十分です。
そこには、我々人間が感覚化している宇宙全体の現象を律動させる、その本質の構造(カタチ)と原動力(チカラ)がイデアのままで存在しています。
と言いましても、要するに先ほど三角形を想像していただいたときの、その三角形の原形が存在しているところなので、私たちの意識のずっと奥、ずっと中心のことです。
遠くにあるものではありません。
ビデオゲームとウェブサイトに例えてみる
この図4には、半透明の人体の形がありますが、抽象的な原形としての人間の構造のイデアがあるんですよという意味です。どうです、(言葉にするのが)難しいでしょう。
映像としての見た目は忘れていただいて、こう考えてみてください。
ビデオゲームに例えると
例えば、ビデオゲームをやるとき、画面には最近だととてもリアルで迫力のある映像が映し出されますが、その映像を映すためのデータは、ディスクやメモリに記録されたただの電磁的なデータ(プログラム)です。形もなければ大きさもありません。
それは純粋に抽象的なデータで、コンピュータはそのデータを読み取り、画面の画素に映像を描き出します。
画面はもちろん平面です。ゲーム機はその平面に、プログラムに従って「大きな空間を奥へ進んでいく」かのように描き出します。
この「大きな空間」は実は平面な画面であるにもかかわらず、ゲームに夢中になって我を忘れている者にとっては圧倒的な空間です。
そしてプログラムの中には座標のデータがあり、その座標をスキャンすることで、ゲームの世界のどの位置に主人公がいるかが決定されます。
主人公が移動する(操作がなされる)たびにそれらの座標が参照され、その座標に対応した景色が描き出されます。
しかし、やはりその画面は平面です。画面が移り変わるのではなく、画面の画素の一つひとつが目まぐるしく色を変えているだけです。
それを知覚するプレイヤーは、あたかも自分が空間の中を移動しているかのように楽しんでいます。
しかしもちろん、その景色の本質は、抽象的な記号と数字のデータなのであり、そこには空間も時間もないのです。
ゲーム機のコンピュータはさらに、プログラムに従って様々な人物やモンスターや困難な状況を描き出します。
そして、ただの平面な画面に奥行きと広大な空間を見出しているのはプレイヤーの脳内であり、それに興奮したり、様々なキャラクターや状況に一喜一憂しているのはプレイヤー本人です。
実際は2次元の平面な画面に3次元の空間を見出しているのはプレイヤー本人であり、そこにスリルとドラマを見出しているのもプレイヤー本人です。
世界はプレイヤーの中にあるのです。
この場合、ゲーム制作者と電磁的データが意識の世界、
コンピュータと画面が人体と物質世界に対応しています。
プレイヤーとは人間の自我意識の働きを表しています。
オンラインゲームに例えると
このゲームの比喩をさらにオンラインゲームに進めてみると、このように考えることができます。
「地球」というオンラインゲームに多数のユーザーがログインすると、それぞれに主人公の身体が与えられ、地球の空間を共有して、地球の中で出会い、共通の体験をすることができます。
ただし、実際に共有しているのはプログラムを共有しているのであって、反映された世界はそれぞれのユーザーの個々のディスプレイ上にあるものです。
この「地球」というゲームがどのようなゲームかは、皆さんご存知の通りです。
ただ、「多数のユーザー」と言っても、アカウントは多数あるのですが、本当のプレイヤーは一人です。
本当のプレイヤーは意識であり、地球をプログラミングしたのも意識です。
自分で創ったゲームの中で、多数のアカウントで面白く遊ぶために、自分で創ったことは一旦忘れることにしているようです。
(ただし、地球はただの数あるゲームの中の一つとは言えない存在であると私は考えています。それは、私が大本神諭、伊都能売神諭、日月神示、火水伝文、大日月地神示などを読んでいるからです)
ウェブサイトに例えると
また例えば、今ご覧になっているウェブサイトはどうやって作られているかというと、基本的にはHTMLというプログラミング言語で記述されていまして、アルファベットと記号と数字の羅列で書かれた文字列を、ブラウザ(インターネットのページを見るために開くツール。Google Chromeとか、Safariとか、Firefoxとか、DuckDuckGoとか)が読み取って、皆さんが目にする画面を生成しています。
この場合、ウェブページの作者とHTMLが意識の世界、
ブラウザとディスプレイが人体と物質世界に相当します。
このようなコンピュータの技術は、実は宇宙と人間の意識構造の一つの反映として地球上に現れているものなので(オコツトが言うには、コンピュータ技術とは冥王星が人類に仕掛けたもの「シリウス革命」pp.77-78)、ちょうどそのままの関係性だと言えます。
種子に例えてみる
もう一つ類似した関係性を持つものとして、植物の種子を思い出します。
例えばドングリなどの種子は、小さく、その中に成長した木の姿が入っているわけではありません。
中には何も無いように見えるのですが、そこには確かに成長の設計図が埋め込まれており、周囲の土壌の養分や水分を取り込んで一体となり、その設計図通りに姿を変え、成長していきます。
種子の中には、プログラム(計画)があるのです。それは抽象的なプログラミング言語のような形で存在しており、それを現代科学ではDNAと呼んでいます。
DNAは静的で抽象的な意識の世界、
樹木として成長する植物の姿は動的で具象的な現象の世界に対応しています。
オコツトは、地球の自転・公転などについて語るなかで、このように言っています。
「5次元空間においては惑星は自転も公転もしていない」(「2013:シリウス革命」p.168。 p.165の「次元等化」についての説明で)。
人類にとって地球の自転と公転のように見えている運動は、3次元空間に投影されてくる高次元空間の射影のようなものだというのです。
そしてオコツトの高次元的視点から見れば、太陽系は静的なある種の幾何学形態に見えていると。
天体の自転(スピン)や公転(円運動)といった動的な運動は、高次元の幾何学的なイデアが、下次元へと投影されて、その下次元に意識の焦点(ヌーソロジーでは「意識の位置」という)を合わせている我々にとっての現象として知覚されているものだということになります。
静的で抽象的な意識のカタチ(構造)が常に本質として元々あり、現象として動的に展開され目撃しているものは、常にそれらの反映であるということなのです。
私としてのイメージは、完成された幾何学的イデアを、部分的に一つひとつなぞりながら時間・空間的感覚を伴って展開しているのが、この現象世界であるという感じです。
オコツトは、光とDNAは全く同じものと言っています(「2013:シリウス革命」p.576。上次元では同じイデアが、人間には光とDNAに分かれて知覚されている。その他にも天王星や黄道十二宮など数多くのものに分かれて反映されている pp.526-527)。
高次元による人間への関与が光で、その光を森羅万象の七色に分光するプリズムのようなものが人体のイデアであるとイメージしています。
「反転する人間の意識」の図
ここで反転の関係性を表した図5をご覧ください。
この図5の意図を解説してみたいと思います。
まずおことわりしておきたいのは、「脳で反転している」というのは私個人の見解ですので、この記事でよく引用している半田広宣氏のヌーソロジーとは関係はありません。ヌーソロジーでは「反転」に関して明確で壮大な論理構造を有していますが、特に「脳」が反転の中心として語られることはありません。「脳で反転している」とは私個人の認識においての発言ですので、半田広宣氏のためにも誤解のなきようお願いいたします。
この図では、右側の抽象的な意識の中に人体の形を入れていません。やはり人体を描いてしまうと、その形がそのまま存在する想定である、または、その人体の部分だけが反転するもののように見えるのではないかと思いました。
そうではなく、あくまで人体として反映されるのは宇宙全体の構造なので、右側の意識全体が、左側の人体へと反転するものであるということです(聖書「神は自らの姿に似せて人を造られた」)。
そして人体の構造/カタチに備わった機能を通して、全宇宙のすべてが人間の感覚として展開されるのであるということです。
人体を起点として宇宙の森羅万象が感覚化され現象化されるのであり、その逆(宇宙の現象から人間が誕生したの)ではないということです。
この「意識」が「人体」へと反転するその中心点として、脳がその役割を果たしていると考えています。
なぜなら、これまで説き明かしてきたように、脳機能が人体という感覚世界を生み出しているのであり、よってその感覚世界は脳内に広がっているからです。
そして我々が物質としての脳を見ているのも脳内の世界であり、物質としての脳もまた脳内に反映され知覚された脳の本質の幻影であると考えています。
現代科学では脳によって意識が生み出されていると考えられていますが、これまでの説明の通り、意識とは宇宙全体の本質/本体であるので、脳も人体もその本質は意識の中に既にあるものです。
その意識の中の構造によって、人体が生み出され、その反転構造が生み出され、その反転の中心点/特異点として脳が生み出されているということです。
そしてあたかも「外に広がる世界」や「他者や万物の存在」として知覚されるものの本質も、右側の意識に元々のイデア(構造とデザイン)があり、それを人間の潜在意識が走査(スキャン)することで知覚されています。
この図5で言えば、左側の人間の視界には公園と大きな樹木と、そこに集まった人々(という概念の集合)が知覚されていますが、全一の元の意識の中にそれらの原形となるプログラムがあるために、それをスキャンして感覚化しているのです。
それらを人間は「外の世界」「他者」「物質」などと呼称しています。
人間の意識は元々、客観世界を作り出し、物質という概念の中で生きるよう設計されたものなので、物質世界の中で肉体を持った自分(自我意識)が活動していると思い込んでいますが、
しかしてその実態は、常に意識の活動が始めにあり、その反映として人体(顕在意識)の活動を経験しているものなのです。
神道の言葉に「霊主体従」という言葉があります(大本の出口王仁三郎の言葉として知ったので、どこが由来の言葉かはよくわかりません。王仁三郎にも霊学の師匠がおられますので)。
本来人間は霊(魂・精神)を主として生き、体(肉体的欲望)を霊に従わせることが本願であるといったニュアンスですが、これは精神的スローガンのみにとどまらず、ただ実際の意識の働きを言い表した言葉だということもできます。
物質的・肉体的欲望に陥った人間の意識であっても、その実際は意識側が先行して働かざるをえないというのが真実です。そういうシステムだからです。
ただ、意識が先行して働いてはいるのですが、人間の自我意識へ突っ込んだその働きは、自己の欲望(物質や他者という像に反射させた自己像から生まれる望み)を目的として生きてしまうようです。
無限/抽象について
意識は抽象であるということを何度も繰り返しています。
図5「反転する人間の意識」の右側、宇宙意識とは、抽象の世界です。
このことをどのようにイメージすれば良いのでしょうか。
私の感覚では、抽象という言葉は無限と言い換えてもいいような気がします。
「線がある」というと、これはかなり抽象的な表現です。
どんな線なのかがわかりません。どれくらいの太さか、どれくらいの長さか、真っ直ぐなのか曲がっているのか、実線なのか点線なのか、何色なのか、水平なのか垂直なのか微妙な角度がついているのか。
しかし、それら具体的(そのもの自体の外側に基準がある)な疑問をわざわざ差し挟まなければ、「線がある」というのはイデアとしては成立しています。
それがどんな線であってもなくても、「線がある」という純粋な概念は成立しているのです。
それを具象/現象としての世界に落とし込むとき、「どんな線か」を必ず選ばなくてはなりませんが、しかし「どんな」の部分はその線の本質ではなく、この場合は、「線がある」の「線」であればそれでいいのです。
線であることが本質です。
「線がある」とだけ言ったときの線は無限です。
長さがない、太さがない、色がない、直線か曲線かも定まっていません。
具象の姿が定まっていないので、抽象としてしか存在しえず、言葉だけの概念です。
そうです、イデアとは言葉だけの存在なのです。「始めに言葉ありき」。
しかしそれは人間が使う言語のことではなく、純粋な概念のことです。
そこには物語もなく、一つひとつ区切られたカタチが、その他の全てのカタチと一体となって、絶対の意識の中に不動のまま存在しています。
この無限の状態のままで意識を働かせることです。
或いは、目の前の具象から、抽象的な真理を抽出することが、高次元への道を辿ることになるのではないでしょうか。
下次元の意識に具象として感覚化され反映された高次元のイデアを、人間の思考力を通してもう一度純粋なイデアに変換しなおすのです。
具象から具体的な印象しか得られないのであれば、それこそが人間界から抜け出すことができない輪廻というものでしょう。
無限・抽象・純粋がわからなければ、「高次元」などと言っていても意味のないことです。
高次元について、「どんな姿の何星人がいて、どんな宇宙船で私たちを助けてくれるのか」といったような思考を働かせていても、それは結局、物質の権化としての地球人類が作り出す、頭の中の物語でしかないのです。
人間が知覚する現象としての「宇宙人」の姿はそれぞれの形であるでしょうし、立派な宇宙船にも乗っているのだと思います。
しかしそれは先ほどの「線」のイデアでも述べた通り、その「宇宙人」の本質ではありません。
その高次元の存在が、我々地球人の意識の次元へ自らの本質を投影させたときに、我々に見える姿のことを我々は「宇宙人」と呼んでいるのです。
その存在が「高次元から来た」というのならば、それはどこか空の高~いところからピカピカ光りながら来たのではないのです。
あなたの意識の中心からその姿を投影しているのです。
現象の起点は常に意識の中心です。
(チャネリングでよく高次元の存在が「私たちはあなたの中にいます」と表現されますが、それはこういう意味です)
つまりそれは地球人類の可視光線のプロジェクターで投影された地球の中での姿であり、
地球が見ている夢です。その存在の本質ではありません。
本質は常に我々の意識の中心にあり、中心即全、意識即宇宙です。
図形としては円の中心に点のあるもので表現できます。日月神示の丸チョンです。
これは現象宇宙の根本であり、存在のためのイデアを図示したものです(私の見解)。
相対化されなければ「存在する」という自覚は起きないからです。
このように、抽象的思考は図形に普遍的真理を見出すことができます。
(具象的思考は円周だけを回っています)
意識は意識らしく、無限で抽象のまま働かせることが大事です。
無限ですから、あらゆるイデアが「今・ここ」に存在しています。
時間も空間もないので、永遠もなく、宇宙の果てもありません。
すべてが「今・ここ」に重なって、しかも自由にスキャンできるように独立し、連なって、総体として、無始無終の不滅のイデアとして静止したまま、ただ存在しています。
我々人間は、静かにそこからカタチを降ろしてくればいいのです。カタチになればいいのです。
しかしそれが自由にできるようになるためには、一度下降してきた人間存在としてのチカラを、上次元へと向けなおし、意識のカタチを見出して純化させなければならないのです。
この作業が、人間の人生の意味だと思っています。
「私」について
あなたが「私」という感覚をただ純粋に感じてみるとき、あなたの意識は抽象化されて反転の特異点に焦点を合わせています。
その特異点は、神が人間世界を見るときの覗き穴です。
あなたが「私」という感覚に焦点を合わせるとき、あなたの視点は神の視点と一つになっています。
全宇宙において「私」という意識をもてるのは、唯一絶対の主体である神しかいないからです。
あなたがご自分のことを「私」と感じられるそのことこそが、あなたが神であることの証なのです。
「I AM」がスピリチュアルの聖句として多用されるのは、このことを伝えるためです。
ですから、実は神の意識を意識するために支払うべき労力というものは何も無いのだと分かります。
神は意識のことであり、意識とはあなたのことなのですから。
意識を意識していれば、それが神の状態です。
(物質や自我意識ばかりを意識している状態は、神ではないかのような状態です)
神を意識することに労力は必要ないかもしれませんが、そのことに気づくまでには、人間としての「人生の経験」「地上の経験」の途方もない経験値が必要なのかもしれません。
「神はこの『私』という意識である」という気づきは、それ自体が人間存在にとって決定的な転換になるので、ここに至るまでにはたっぷりと人間らしい経験を積むことになるでしょう。
時間と空間という感覚を伴って世界を展開し、自己と他者の相対性と、喜怒哀楽の感情を十分に経験したあとになることでしょう。
あなたはもしかすると、ご自分のことを不完全で、苦労のし通しで、どうにか誰かに助けてもらわなければ、もう生きていられないくらいに不器用な人間だと感じているかもしれません。
これは実は筆者自身と社会との関係性についての感想なので、あなたは違うかもしれません。
しかし、そうした不完全さや愚かさを表現するものとして人間存在は設計されているのですから、それでひとまずは成功なのです。
それを神の意識は体験しているのです。
オコツト
「進化は意識の葛藤が生み出すのです。葛藤がないところに進化は生まれません。人間の持った力は不確実であるがゆえに葛藤が生まれています。それが調整を覚醒へと変えていく力になるのです。」「2013:シリウス革命」p.144
上記のオコツトの言葉に出会ったとき、希望と絶望を同時に感じました。葛藤があることは良いことだという希望と、でももうたくさんだという絶望でした。
ですから、人間が求めている意味での「救い」というのはどこにもありません。
ただ、この苦しみがなぜ苦しいかというと、楽で楽しいほうへ行きたい動機を生んで、人間を純化させ、その過程の中から新しい宇宙を抽出するためのものなので、光に向かって生きるということはやはり大事なのだと思います。
図5の右側の意識とは、実は左側の自我意識もその一部として含んだ、宇宙意識の総体のことであると私は想定して、この図を作っています。
第二部の3をご覧ください。