【2】意識反転 第二部の1 主観

意識の位置を反転させて原点に帰還する/人間の外面こそ人間の本体/抽象が実体、具象が反映


第一部にて論じた科学的知見は、科学者自身によってその展開が封印されていました。

つまり、我々が知覚する世界のすべては、脳内で生成される感覚であり、そのことを科学者は研究し解明しながらも、ついにこう断言することは無かったのです。
「我々人間の世界は脳内に向かって広がっている」と。

そしてその脳内から視線ひるがえし、「本当の外の世界はどこか」について、問うことを決してしなかったのです。

我々人間の世界が物質ので埋め尽くされているのであれば、その物質の本体・・はどこにあるのか。

個別化された自我意識は、他者と世界の同一空間を共有しているかのように感覚しています。
しかし自我意識が生成する世界は他者とは別次元にあり、共有しているわけではありません。
ただし、個別化した者同士が共通の認識を交換して会話できるのであれば、その自己と他者、両者の背後に何らかの普遍的な裏打ちが存在するのではないかと予測することができます。

その背後にある普遍的な何かこそ、この世界の本質、我々の意識の正体を予感させます。

第一部においては、科学的知見の範疇に論拠を限定し、科学それ自身の言葉で、科学的・物質的世界観からの意識の反転を試みました。

この第二部では、ついに科学者が見て見ぬふりをしていた領域に踏み出すことになりますので、必然的に科学以外の分野から論拠を参照してくることになります。
そして論理の展開も、私の個人的な見解と直観で進めることになります。

ですので、何か共感できると思える部分や、何となく納得できる、興味がもてるなど、関心がおありの方には是非お付き合い願いたいと思います。

ただし冒頭において、いまだ科学的知見から確認しておきたい点がいくつかあるので、量子力学が語る言葉から始めたいと思います。

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半田さん:[前略]では、わたしたちの文明が作り上げてきた知識体系や創造活動はすべて無意味なもので、ただ偽りの神に奉仕してきただけだったとおっしゃるのですか。

オコツト:いいえ、そうではありません。なぜならば、あなたがたが歴史の中で立ち上げてきたあらゆる学問の究極の目的とは、この認識原理の転倒に気づくことにあるからです。
物質的な知の累積こそが人間にこの転倒原理を気づかせる唯一の方法なのです。

[中略]あなたがたの眼前に展開されている宇宙は真実の宇宙構造が完全に転倒させられた影のようなものです。ですから、この写像から獲得されるあらゆる知識は宇宙的真理をある意味ですべて含んでいます。しかし、その真理はあくまでも転倒された真理にすぎません。

[中略]タカヒマラから俯瞰すれば、物質的知識の獲得の目的は、そこで得られる知識それ自体にあるのではなく、それらの知識に根本的な刷新を与えさせること、つまり、物質的知が精神的な知へと変容するところにあるのです。

「2013:人類が神を見る日 アドバンスト・エディション」半田広宣 著 p.137

”物質”という強固な概念 科学と宗教・スピリチュアルの限界

科学史上のほとんどの科学者がそうであるように、科学的世界観で思考様式が構築された現在の地球人類は、漠然とした”物質”という概念の中に閉じ籠り、物質という概念自体が固い殻となってさなぎになり、その中から出ることがかなわずにいます(その蛹の中で今まさに変態を遂げようとしているのかもしれません)。

脳科学や生理学などが、人間の世界が感覚によって成立していることを解き明かしていながら、依然として物質的な世界観から逃れられないでいるのです。

これは宗教家やその信者、スピリチュアルが好きな方々にも同じことが言えます。
彼らが「霊的」と言うとき、その反対側では「物質世界」の存在を対比させています。
彼らが「神」と言うとき、その反対側に「地上の人間世界」を対立させています。
彼らが言う「高次元」「多次元」とは、「この物質次元から周波数が高まった延長線上」にある場所を想像しています。
「UFO」「宇宙人」への憧れも結局は物質的なイメージですし、「超能力」「霊・魂」「神様」といったものまで、すべて物質的なイメージ(と自我意識)に結びついています。

表:高次元と言いつつ実は物質的で人間的な概念

地球人類のほとんどは、物質的・具象的なイメージの思考から離れられず、抽象的で純粋な思考を持続させることが難しいようです。
これらはすべて、「物質」という漠然とした概念を基礎/前提にした思考様式です。

例えば、第一部を読んでいただいた方の中にも、「そういう脳だって物質でできているのだから、結局は五感というものも物質から生まれているのではないか」と考えていらっしゃる場合もあるのではないでしょうか。

”物質”の本質 そもそも物質とは

こうなれば、そもそも「物質」とは何なのかを問い直してみなければなりません。

「物質ってなんだろう」と考えるとき、おそらくそれを構成する最小の単位を考えてみるのが一般的ではないでしょうか。つまり素粒子そりゅうしとか量子りょうしと呼ばれるものです。

物理の極小きょくしょうの世界、量子力学の世界を覗くと、我々人間が日常で経験する物質の振る舞いとは全く変わってくることがよく知られていますが、極大きょくだい(例えば天文学的スケール)での測定に用いられる相対性理論(アインシュタインの)においても全く日常とは異なる物理法則が見えてきます。

ただ、相対性理論の場合は、物質の本質というよりは、物理法則としての現象・・を説明するもののような気がするので、本質には迫りにくいかもしれません。
相対性理論の論拠(理論構築の前提)となるものの一つは、
 光速度不変こうそくどふへんの原理
といって、光(光子、電磁波)の速度がもつ性質のことなので、やはりここは極小の世界の素粒子、量子力学の範疇を探ってみようと思います。

光の性質はすでに物質ではない

光の性質、特に光速度不変の原理については、独立した記事で書こうと思っていたテーマでした。しかしこの流れで書かないわけにはいきません。

光速度不変の原理とは、読んで字の如く、「光の速さは一定で変わらないよ」ということなのですが、よく説明される言葉はこのようなものです。

「真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係である」Wikipedia/特殊相対性理論 閲覧:2024.09.15

この「光源の運動する速度に関係なく」というような書き方がよくされるのですが、これは簡単に言うとこういうことです。

光は真空中では約30万km/s(秒速。毎秒30万km進む)の速度で一定で進むが、例えば、向こうから光る電球が10万km/sでこちらに向かって来ていたとしても、或いは10万km/sで遠のいていたとしても、どちらもその電球からの光は、同じく30万km/sでこちらに進んでくる

というものです。

私が光速度について知って瞠目どうもくしたのは、もう少し突っ込んだ説明に触れたときでした。わかりやすく短くするために、参考とする書籍をそのまま写すのではなく、新しく例文を書いてみます。

私は一人宇宙空間に浮遊していて、遥かに小さく宇宙船が見える。その宇宙船は私に対して静止している。その宇宙船から光が発せられている。私はその光速度を測定できる計測器をもっていて、自由な速度で移動しながら光速度を測った。
4つのパターンで測定した結果は以下だった。
■静止して測った場合:光速度30万km/s
■私が宇宙船から20万km/sで遠ざかりながら測った場合:光速度30万km/s
■私が宇宙船に向かって20万km/sで近づきながら測った場合:光速度30万km/s
■宇宙船が発した光を私が20万km/sであとから追いかけて測った場合:遠ざかる光速度30万km/s

どうです。おわかりでしょうか。

我々地球人の日常的な経験上では、例えば時速50㎞で近づいてくる自動車から、自分が時速30㎞で逃げていれば、自分から見た自動車の速度は 50km/h – 30km/h = 20km/h、時速20㎞で近づいてくることになります。

しかし光の進む速度はというと、自分も光源も、どんなに物凄い速度で離れたり近づいたりしていても、観測される光の速度は常に30万km/s なのです。これが光速度不変の原理です。

厳密には、光速度は真空中で、秒速299,792.458kmとされていますが、その速度を数字で捉えてしまって「速いなあ」で終わってしまうと、光の性質の異常さには何も気づかないままです。
「1秒間で地球を7周半するのかあ」で終わってはいけないのです。

光の異常さは、数字にではなく、性質に現れているのです。

ただ、前掲のWikipediaの同じページには以下のようにも書いてあります。

なお、現代では光速度不変の原理として以下のような表現を採用する流儀も多い。
「真空中の光の速さは一定であり、どの慣性系で測定しても同じ値をとる」
Wikipedia/特殊相対性理論 閲覧:2024.09.15

「どの慣性系で測定しても」と書いてあれば、まあ科学的にはそういうことなのですが、一般には中々イメージしにくく、詳しく書いてもらわないとその重要性が伝わりにくいということがあると思います。

私が言いたいのは、これはもう、光は物質とは言えないでしょうということです。

光速度観測者依存の原理

「不変」という言葉に捉われて理解されていない向きもあるかもしれませんが、
光速度が常に観測者の運動に依存していることにも注意してみてください。

観測者の運動にピッタリ合致して、観測者に対して不変・・・・・・・・・の速度となっているのです。
ということはこの原理は、以下のようにも言い換えることができるはずです。

 光速度観測者依存の原理

こう理解することによって、光速度とは、我々観測する者、光を見ている者自身の運動に合致して、
常に速度を変えていると見ることもできるのです。

量子力学・素粒子物理学は、必ず観測者の存在を前提として成り立つもので、古典力学との決定的な違いはこの点にあるのではないかと考えます。(測定装置を使用する場合にも、必ず人間による観測が終点になります)
科学が有史以来、初めて「主観」を取り入れたのだと私は理解しています。

科学者たちは今まで「これが光子こうしという物質の性質なのだから納得しよう」ということで済ませてきました。
しかし、従前の「物質」という概念を無理やり引き延ばして光子にも当てはめるのではなく、「物質ってなんだ」というところから問い直すべきものではないでしょうか。

なぜこんな物凄いことをもっと学校やメディアで宣伝しないのでしょうか。
  ですよ。
私たちが毎日々々、朝目が覚めてから夜ベッドにぶっ倒れるまで目にしている光のことです。

今あなたも目にしている最も身近でありふれたこの光というものは、これほど非常識・・・不可思議・・・・な性質をもっているのです。
私たちは、そんな世界に生きていたのです。

もちろん科学的に証明されていることです。私が参考にしている書籍(「エレガントな宇宙」ブライアン・グリーン著)にも、こう書いてあります。
「過去一世紀に数多くの詳細な実験 ―さまざまな状況で光の速さをじかに測る実験や、光のこの特性から導き出されることを検証する実験― がおこなわれ、すべて光の速さが一定であることを確証している。」p.57

我々は、これほど常識から逸脱したモノに周囲を満たされ、それに頼って生きているのです。
なぜこんなことが科学で証明されたその日から、人類の世界観を書き換えるような動きが生まれなかったのでしょうか(同様の思いを相対性理論についてももっています)。
少なくとも私は愕然として世界観も揺らぎ、18年前に買ったこの本を大事に手元に置いています(レシートを挟んでいて、なんとか日付が読めました。2006年購入)

私はこの一例だけを挙げても、科学者とアカデミズムは、人類の精神的な進歩のために不親切で不真面目だと言い切ることができます。

光は”物質”などではないのです。
ではこれはなんなのか。
人類は世界観をリセットする必要があります。

時間と空間は物理的な存在ではない

光速度不変の原理(または光速度観測者依存の原理)だけをとってみても、すでに日常的な空間と時間の感覚が破綻していることがわかります。

自分の肉体と精神の外側に既存の空間が広がっていて、その中を光子という「物質/粒子」が飛び交っているというような、「空間」と「物質」が独立して存在する世界観では、上述したような光子の運動は感覚的に許容できないのではないでしょうか。

実際、アルベルト・アインシュタインはこの光速度不変の原理について深く考察した結果、特殊相対性理論(と、その後の一般相対性理論)を導き出すことになります。

相対性理論では、時間も空間も既定の存在ではなく、互いに異なった運動をする観測者(異なった「慣性系」)のあいだで伸びたり縮んだりする「相対的」な尺度をとることがわかりました。もちろんその後の実験や観測で理論は実証され、天文学の観測などで実地に応用されています。

観測者同士のあいだで時間や空間が伸びたり縮んだりするということの解釈には注意を要します。
時間と空間の伸縮とは、「ゴムという物質が伸びたり縮んだりする」というイメージとは根本的に性質の違う現象だと私は認識しています。

例えば、一般的には以下のような感じで認識されていると思います。

  • ゴムという物質がそこにあり、それが伸縮する
  • 時間がそこにあり、それが伸縮する
  • 空間がそこにあり、それが伸縮する

このように、「ゴム」も、「時間」も「空間」も、すでにあるものが伸縮して変化するという認識です。これは科学的思考の基本原理でしょう。

しかし、「ゴム」の認識の仕方と「時間/空間」の認識の仕方には、上記の例文のようではなく、根源的な認識の相違を意識する必要があるということです。

そもそも速度というものは、相対的にしか測定できないものとして説明されます。
例えば、「この自動車は時速50㎞で進んでいる」というとき、科学的には、何に対して/何を基準に動いている速度かを定義しなければなりません。

車道やそこに固定されている標識などに対して50km/hで進んでいても、それを太陽を基準に置き換えた場合、自動車が太陽に対して進む角度や、地球の公転の速度、地球の自転の速度と傾きと向き(自動車が位置する地表面の自転する方向が、公転の方向に対して順か逆か)、などを算出しなければ、自動車の[太陽に対しての速度]は求められません。
そして基準をその他の太陽系内の惑星や、太陽系外の星々に移せば、まったく計算も速度も変わってきます。

「速度」とはこのように、根本的に相対的な尺度であるわけですが、相対性理論によれば、時間や空間もまた同じように相対的な尺度であることがわかります。
そして速度とはあくまでも、現象に人工的な解釈を施した尺度にすぎず、速度それ自体が物理的な存在ではありません(ゴムがあって、それが伸縮するという現象とは根本的に違う)。
相対性の中にあって初めて定義することのできる概念にすぎないのです。

そこで私はこのように感覚しています。

時間・空間も、速度と同じように物理的な存在ではない と。

時間が物理的存在ではないと直観的に捉えられる方は割と多いと思いますが、空間については、日常的な感覚として、物理的に目の前に広がって、果ては宇宙として広がっているものと捉えている方が大半なのではないでしょうか(こんなアンケートは見たことないので定かではないですが)

そしてどうも、相対性理論や量子論、光速度不変の原理などの解説を見ると、時間や空間や光をあたかも物理的な既存の存在として扱い、それが伸びたり縮んだりするようなイメージで語っているものがほとんどのような気がします。
仮にそれが、専門家が一般向けにわかりやすく比喩的に説明しているのだとしても、あまりにも根本的な誤解を招き、世界観を根底から誤らせる風習になってはいないでしょうか。

時間も空間も、それは元々存在しているものではなく、自己(観測者/主観)と他者(他人・物質世界)の相対性のあいだ、その差異さいの中に、その都度現れている「感覚」なのです。

そして光もまた

そしてさらに一歩進めて私はこう言いましょう。

光もまた、速度や時間や空間と同じように、相対性の間にしか存在しない現象である と。

たしかに光は、量子論的な不可思議な波の性質も合わせもつとはいえ、素粒子物理学的には光子を観測した「粒子」の画像もありますし、依然として「物質」としての認識が科学者のあいだでも一般的だと思います。

しかし忘れてはならないのは、光速度不変の原理です。

粒子として観測されようが何しようが、その速度は観測者の運動にピッタリ依存して、観測者にとって常に不変なのです。そしてその性質から、相対性理論によって時間も空間も相対的に違って観測されることが証明されるのであって、これらを「物理的存在」として扱うことのほうが無理があると、私はそう考えています。

ここで少々論理を飛躍させて哲学的・宗教的な表現を持ち出すならば、
本来の一体性から個別化された「個人」「自我意識」という個々(此処)の視点同士の間に相対性が生み出されており、その中心(超越した次元)に光の本質があり、個人の感覚の中に不変の速度として観測されている
と表現することもできるでしょう。

「物質」とは「客観」である

光の速度は誰から見てもどんな運動をしていても「絶対的」であるなどとも言われますが、私はこれを「主観的」であると言い換えることもできると考えています。

光を見ること、つまり ”見る” ことそれ自体が「客観的」であることはありえません

そして第一部でも論じた五感のすべてが、そもそも「客観的」であることはありえないのです。

この単純な事実に気づいていない人は割と多いのではないかと考えているのですが、
「客観的な感覚」というものが存在するでしょうか。

感覚というものは全て主観そのものであり、そしてその感覚のみによって世界は知覚されているのですから、実は「客観」「客体」というものは存在しないのです。

このことは、このサイトで何度強調してもしすぎることはないくらいに重要なことだと思っているのですが、

あなたのこの世界には、主観・主体以外には何も存在しません

あなた以外には何も存在しません

「客観」とか「客体」というものは、主観・主体が生み出している概念であり、ただそう考えているだけにすぎません。
(ただし、客観を感じてしまうことは無駄なことではなく、自我意識の機能として元々備わっているものであると私は考えています。)

このことを ”見る” ということを通して考えてみましょう。

光とは主観である

ものすごく当たり前のことを語りますが、大事なことなのでお付き合いください。

あなたが今見ている目の前の光景は、光を知覚して生成された映像であるわけですが、その光景は、あなたの目に飛び込んできた光だけで構成されています。

図1 見る

図を作ってはみましたが、図にすること自体が客体化なのであまり良い方法だとは思えないでいます。目を横に描像する時点で違和感があるのです。でもやはりこれが分かりやすいでしょうか…。

図1のように、光(白の矢印)が目に飛び込んできます(この表現も客観化された表現ですが、この段階で簡潔に説明するためにこう表現しています)。

この時、瞳の角膜かくまくとか水晶体すいしょうたい(レンズ状)とか言われる中心部に光が集められ、眼球内部へ通過し、網膜もうまくに到達した光の刺激のみが、脳の視覚野に中継されて映像を生成します。

端的に言いますと、あなたが見ている光とは、この瞳を通過した光のみ・・であるわけです。

図2 存在しない

図2は、光が瞳に入っていません。瞳に入っていない光は、全くあなたに知覚されていないばかりか、量子論的には存在すらしていない(”状態が確定していない”がより的確でしょうか)ことになります。

ここで私が「知覚していないものは存在していない」と言うのは、量子論における「不確定性原理」を想定しています。専門家にとってはかなり乱暴な表現だと思うので、注釈を加えますと、

知覚していない(観測していない)量子は、粒子ではなく波の状態で存在しており、
観測した途端に粒子の姿を現すが、観測されたその粒子は、

  • [位置]どこにいるか と、
  • [運動量]速度と質量を加味したエネルギー

の両方が同時に決定されない性質をもっています。

これは、[位置]と[運動量]を同時に調べる・・・ことができないという意味ではなく・・・・、両方が同時に決まらない存在であるということなのです。量子はそういう存在であるという意味です。

であれば、我々が眼前に感覚化しているこの世界は、すべて測定結果であると言えないでしょうか。

観測されていない世界には、定まった状態というものが存在しないのです。

さて、ここで ”見る” ことについての考察に戻りましょう。

私は今、実に当たり前のことを言っています。しかしよく考えてみてください。
あなたは今、目の前の光景とそこにある数々の物たちを、自分の肉体から距離を隔てたところに位置するよう感覚化していませんでしょうか。

しかし事実は、例えば目の前にあるテーブルがあなたに見えるのは、テーブル(とあなたが名付けているモノ)に光が反射して、あなたの瞳に入り込んだ光のみが、脳の視覚野へ中継されて映像を結んでいるからです。

瞳に入らないそれ以外の光は、あなたの知覚からは全くはずれていて、それは存在しているとすら言えない状態なのです。

少し距離があるように見えているテーブル、そして自分の外に客体として存在しているかのように知覚しているテーブルですが、実のところ、あなたの瞳を通過した光のみが、あなたの脳内で像を結んでいるのであり、それは文字通り ”あなたの中にある” ものなのです。

感覚が「客観」「客体」ではありえないと言ったのは、このことです。

太陽の光を直接見たり、照明の灯りを直接見たりしたときだけでなく、あなたの周囲に配置されているような数々の物たちもまた、あなたが 直接 見ているものなのです。
瞳に入らなければ見ることもできないので。

写真1:光芒と海(フリー素材)

写真1は美しい光芒こうぼう(光のすじ)がとらえられていますが、この光のすじは、光の経路をそのまま横から見ているものではありません。

太陽から差した光が、大気中の無数の水蒸気の粒に反射して、カメラのレンズへと方向を変えて飛び込んできた光なのです。

光を横から見ることは不可能なのです。

写真2:光を横から見ることはできない

写真2は、情緒を度外視して、光の経路をわざわざ説明してみたものです。

人は、この無数の水蒸気に反射した光を総体としてとらえて、太陽の光のすじ道を想像し、客体化しているのです。

しかし事実としては、この写真に見えるすべての風物が、直接あなたの目(レンズ)に差し込んだ光であるというわけです。

何を言いたいのかまとめますと、繰り返しになりますが、
我々が知覚しているこの世界に、「客観」も「客体」もありえないということです。

光を横から見ることはできません。

なぜなら、「見る」ということと「光」は一つのものだからです。
「見る」ということは「光がある」ということであり、「光がある」ということは「見ている」ことです。どちらか一方だけが存在することはありません。

そして、「見る」ということは、あなたの中で起こっていることだからです。

あなたが立ち会っていない物・場所を、外から眺めることなど原理的にありえないのです。

光とは主観 です。

そしてそれは同時に、
五感などによって感覚化されているこの世界のすべてが主観 であるということです。

第一部の内容を思い出しましょう。

あなたのその世界のどこに、客観・客体が入り込む余地があるというのでしょう。

しかし、「傍観する」ということは、人間には原理的に不可能です。なぜならその二人の姿、二人の会話は、あなた自身が知覚して生成しているものだからです。

その会話の言葉(音声)の一つひとつに意味を付与しているのは、あなた自身(あなたの自我意識)です。

あなたがいくら素知らぬ振りをして会話を聞いていても、その「二人の会話」という現象は、あなた自身の世界に生成されているのです。あなたので起きている現象なのです。

あなたがそれを知覚しているかぎり、あなたが立ち会っていない光景などありません。

あなたはあなたの世界から身を隠すことはできません。あなたは自分を偽ることはできません。世界を欺くこともできません。

あなたは常に現場なのです。あなたは現場そのものなのです。

客観・客体というのは常にただの想像であり、仮想であり、仮説であり、
人類史上に存在したためしがないのです。

ついでに言えば、空間的な客体[そこ・あそこ]時間的な客体[過去・未来]もありえず、
「今・ここ」しかない というのはこのことなのです。

あなたの存在こそが、その瞬間であり、そのなのです。

ここであらためて光速度不変の原理について思いを巡らせてみるのもいいでしょう。

よって「客体」「物質」は存在しない

どう考えても、「客観」「客体」というものは存在しえません。

ただし、「客観化する」「客体化する」ということが、人間存在が持っている最重要の機能なのではないかと私は考えています。

「客観化する」「客体化する」ということは即ち、「他者」を生み出すということであり、それは即ち「自己と他者」の相対性の始まりです。
私は「他者」という言葉の中に、他人という人間だけでなく、物質世界の全てを含めて考えています。
要するに「外に広がる世界」の全てです。

私は人間とは、本来一つである根源的存在、いわゆる「神の意識」に客観と客体をもたらし、一者であれば経験できない苦しみや葛藤や絶望や安堵や喜びを経験するための装置なのではないかと考えています。

人間が喜ぶことができるということは、人間存在に元々「喜ぶ」という機能が備わっているのであり、同時に、苦しむ・悲しむ・怒る・痛む、などというネガティブな感覚を経験することができるのは、そうした機能が備わっているからです。
それはつまり、ネガティブな感覚/経験もまた神の意志によるものであることを意味します。

ですから、苦しみを生み出すということも人間の存在理由の一つだと考えるので、それに真正面から向き合おうとせず、逃れる方法ばかりを探し回って、その苦しみから何らかの真理を抽出しようとしない(ように私には見える)スピリチュアル業界の傾向に疑問をもっているのです。

苦しいからと、思考することをないがしろにして、自らが生み出した経験から逃れようとするばかりでは、何のために人間として生きているのか分からないではないですか。

(そのように私には見える)スピリチュアルの主流の傾向とは、例えるなら
「苦しい症状を人工の物質を用いて人体の機能に無理やり干渉し、無感覚状態にしてしまう医薬品」
と大して変わりはないのではないでしょうか。

病気の根本原因と向き合おうとせず、その苦しみ(真理から逸脱していることへの警告)を無かったことにしようとするその姿勢に、生に対する真面目さ、真摯さを感じることはできません。

あまりの辛さに”高次元存在”や”宇宙人”に救いを求める気持ちはよく分かりますが、ほとんどの人は、自我意識の苦しみの救いばかりを求めています。
それは自我意識の現状維持を望んでいるのと同じことであり、本当の意味での「救い」とは真逆の方向です。

苦しんでいるのは常に自我意識の部分であり(神の意識に苦しみは無いので)、その自我意識(自己と他者の相対性)を超越するために “苦しむ” という経験のステップが訪れているのに、そこで自我意識の願いを叶えることばかり考えていたのでは、ただ単に「ふりだしに戻りたい」と言っているようなものです。
元居た位置に戻るだけで、また次の苦しみを迎えるだけなのです。
この繰り返しのことを仏教用語で「輪廻りんね」と言います。

本当の自己の成長や人類全体の進化を求めているようには見えないのです。

あらゆる体験があなたたちに更に多くの力を与えるであろう。朝日の美しさは夜の闇の後に来ることを学び知るがよい。

[中略]

悲しみはあなたたちをわたしに一層近づかしめ、わたしについて学ばしめる。かくしてあなたたちの悲しみは歓びに変わるのである。

イエス・キリストの言葉「心身の神癒 ―主、再び語り給う―」M・マクドナルド・ベイン 著 pp.308-309

親と子であるから、臣民しんみんは可愛いから旅の苦をさしてあるに、苦に負けてよくもここまでおちぶれてしもうたな。

日月神示 上つ巻 第二帖 「完訳 日月神示」

この世は人間にまかしているのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民しんみんのような腐った臣民ではないぞ、いつも神のかっている臣民ぞ、神憑かりとすぐわかる神憑かりではなく、はらの底にシックリと(チョン)しずまっている臣民ぞ、それが人間の真の姿ぞ。

日月神示 富士の巻 第九帖 「完訳 日月神示」 引用文中の(チョン)は、書籍の表記では筆で点を打った印。中心/神の意味。

「心身の神癒」から更に引用したページ 

我々人間が知覚し生成しているこの世界には「正面」しかありません。

横道に逃げようとしても、その横道がまた正面となります。
明日になれば明日が今日です。

「客観」「客体」とは、人間が生み出す概念的装置であり、言うなれば幻想です。

ということは、「物質」という概念も幻想だということなのです。

「物質=客体=実体」であるとする現代の科学一辺倒の思考様式に対しても、私はスピリチュアルと同様に問題を提起します。

科学が好きな人とスピリチュアルが好きな人同士は、あまり親和性がないようなイメージを私はもっているのですが、そのどちらにしても、
世界を客体としてしか感覚化できないという点において、根源的な問題をクリアできていないと考えます。

科学者は「物質」という概念を客体化してそこへ突き進んでいますし、スピリチュアルは「高次元」や「宇宙人」という概念を客体化してそこへ救いを求めています。

科学者は物質という概念が崩壊する素粒子の世界に直面しながらも、未だに「物質」という幻想を手放せないでいますし、

スピリチュアルは崇拝する高次元存在から「物質は幻想です」「あなたは神です」「あなたと私たちは一つです」「I AM」などと伝えられているにもかかわらず、未だに「彼ら」を客体化して救いを求めています。

私に焦点を当てる 主体性を取り戻す

どちらも「私」という主体を忘れてしまっているのです。

神我わたし』(・I am・)は最奥さいおうの神霊意識である。神我キリストの意識は神の意識であり、子の中に現れる父なる神である。

イエス・キリストの言葉「心身の神癒」M・マクドナルド・ベイン著 p.96

子供の私、私という意識の中心点」という記事の終盤でも書きました、この私を私と感じている意識の最も純粋な意識、人間以前の位置から、自己を人間存在の背後から認識している純粋な意識こそが、本当の自己なのだと私は考えます。
というよりも、自己と言える部分はここでしかなく、その他の部分は客体化された、自己ではないかのような・・・・・部分です。
自我意識も含めて本当の自己ではありません。

「I AM」を聖句として伝えるスピリチュアルの教えは、単刀直入に、あなたのその純粋な”私”という意識こそが神なのですよと教えているのです。

そしてその意識の中心がそのまま、私であり、あなたなのです。それは同じ一つの意識なのです。

科学もスピリチュアルも、実は同じ制限を抱えていて、そこから抜け出せずにいたのです。

まずは”私”に意識の焦点を合わせましょう

そのためにここまで、偽物が何であるかを語ってきました。
偽物/幻想をハッキリさせると、より私の中心に意識を合わせやすくなるでしょう。

さて、
人間の外的世界が実は内部世界だった、
そしてそれは全て幻影であった、
ということを第一部で説き明かしました。

そして今、私という意識の中心に焦点を合わせています。

本格的に反転の準備ができているのではないでしょうか。

この意識の中心を特異点として、人間の本当の外部世界とはどこなのか、人間の世界の真実はどこなのかという方向へ反転していきます。


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