意識の位置を反転させて原点に帰還する/科学により反転し、科学により帰還する
[アイキャッチ画像] ハロ(halo)/暈(かさ)と言われる大気光学現象が、2024年7月7日の早朝に観測された。
この日は日本各地で観測されている。画像は伊勢市での撮影。
ウェザーニュースより。筆者が色相などを調整。
現人類の意識は、実は本来の位置から反転した、脳内世界に自らを閉じ込めています。
「脳内世界」と言ったのは比喩でもなんでもなく、単なる事実としての脳内です。皆さんが思う以上に、まるきり脳内であるということです。
それをこの記事【1】~【4】で解説します。
科学的な思考形式によって完成された反転世界を、その科学的知見をそのまま利用して、再度反転させ、意識の原点位置に帰還します。
本稿執筆開始 2024年7月7日 七夕
あなたたちとわたしとを引き離している扉を開くためにわたしは来たのである。
それは外なる感覚という扉である。あなたたちはこの外なるものの中に住んできたために、内なるものが分からなかったのである。
イエス・キリスト
「心身の神癒 ―主、再び語り給う― 」M・マクドナルド・ベイン著 霞ヶ関書房 p.343
第二部の1, 2, 3(終)のリンクです↓↓↓
第一部 反転
この意識の反転の記事は、このサイトで最も重要な記事であると位置づけています。
大きく二部構造とし、
第一部を、意識が反転していることの確認(科学的知見から言えること)とその解説、
第二部を、そこから人間存在の本質について、どういうことが言い得るかを、他の知見(量子力学、ヌーソロジー、私個人の感覚)によって帰納的に語り、本来の位置/真実の位置にまで近づけていきたいと思います。
第二部は、私個人の感覚と視点を多分に交えて語りますが、この第一部は極力、科学的知見に沿って意識が反転していることの確認をしておきたいと思います。
導入 ― 脳内へ ―
皆さんが
「世界が目の前に広がっている」
「遠大な広がりを持つ世界の中に私はいる」
「無限の宇宙の中に浮いている地球の、その地表に私は立っている」
と考えているその世界とは、実はあなたの外に広がっているものではありません。
それは脳内に投影され、感覚化された仮想空間であり、文字通り、脳の中にあります。
その”広がり”は、感覚化されて表現されたものであり、実際に「広い」とか「大きい」とか「狭い」「小さい」といった空間が存在するわけではありません。
あなたが今、目の前の端末(パソコン、スマホ、タブレット、その他このページを閲覧できる近未来に登場する道具)でこの画面を見ているその景色も、あなたの脳内で感覚化され、構築され、仕上げられた景色です。
あなたの脳機能のその外側に、”物体”と、それらを内包する”空間”があるわけではないのです。
今、私は哲学的な話をしているのではありません。
宗教的な話でも、超感覚的(霊的)な話でもありません。
これが如何に現実そのままの、文字通りの「脳内」であるかを、現代科学(脳科学・神経科学・生理学など)の知見を用いて、自然に解き明かしていきたいと思います。
脳機能 概略
簡単に、脳機能(主に五感)がどのような仕組みになっているのかを確認しておきましょう。
スピリチュアルやニューエイジが好きな方々の中には、霊とか魂とかいう概念を尊重しすぎるあまり(それは現代社会への恨みと反発が動機である場合が多いように感じますが)、肉体に関する現代科学的な解釈や知見を無闇に軽視し、関心をもたない方も多いかと思います。
「難しそうだから」というのもあるでしょうが、自分が好きで読んできたスピリチュアルリーダーやチャネラーの世界観に依存し、それを自分の中で勝手に守ろうとして、無意識的に避けていることもあるのではないでしょうか。
しかし、餅は餅屋、蛇の道は蛇と言いまして、物質的肉体のことを知ろうと思えば、物質的世界観を構築した西洋/現代科学・医学の専門家に尋ねるのが一番であり、また、物質のことを知ることが、”物質”という幻想の正体を見破るのには一番の近道になるのです。
私が経済と金融に対する疑問から、その分野を調べ始めて、結局は主流派経済学が幻想であったことを見出したのも、同じ構図です。フラクタルです。フラクタルとは、一切の具象を貫通する、抽象的な普遍の本質的構造のことです。
では、なぜほとんどの人は、物質や経済・金融などについて学び・調べるうちに、それらの幻想であることに気づかないのでしょうか。それは、ほとんどの人が、物質や経済・金融の中に入り込んでしまって、それらを地上として立脚しているからです。「当たり前」だと思っているからです。
私は、そもそもそれらに足を置いていいものかどうかを確かめるために調べているので、自然と幻想であることがわかります。元々の立脚地(意識の位置)が違うところにあるのです。
この記事を読んで、ぜひ皆さんもここから足を引き揚げてください。
脳が司る機能は様々に分類でき、もちろん未だ解明できていない部分も多いようですが(むしろ科学者が使う”解明”という言葉の意味は、本当の解明を意味していないと思いますが)、例えば、
【脳機能の例】
- 考えること
- 体を動かすこと
- 感情を起こすこと
- 「五感」などと分類される感覚を知覚すること
こういったものが、脳が司る機能であると言われます。
これらの機能を脳が「コントロールしている」などとも言われますが、近年の医学で判明してきた「脳腸相関」という働きの広範であることや、これから私がお話しする内容からしても、コントロールするものでは全くないと思います。
要するに、人間(や他の生物)の意志・思考・感覚を「支配する」とか「制御する」というような、主体となるものではないという意味です。
ここで特に焦点をあてたいのが、五感などの感覚です。
「五感」のおさらい
「五感」とは、身体的感覚における、五つに分類された感覚器と脳の働きを言います。
それぞれ以下のように説明されます。
- 【視覚】
目で見ること。外部からの光に、目の中にある細胞が応答し、視神経がその刺激を電気信号と化学物質に変換して中継し、間脳の視床を経由して、脳の特定の領域に伝え、各種の働きを統合して、「見る」と言われる感覚が生まれる。形、色、動き、明るさなどを「見る」ことができる。 - 【聴覚】
耳で聞くこと。外部からの空気などの媒体の振動を、外耳が収集し、中耳が振動を増幅して伝え、内耳が電気信号に変換して、聴神経が電気信号と化学物質で中継し、視床を経由して、脳の特定の領域に伝え、「聞く」と言われる感覚が生まれる。
内耳では聴覚(音の感覚)と、平衡感覚(重力の向き、直線加速度、角(回転)加速度)を知覚する。 - 【嗅覚】
鼻でにおうこと。空気中の化学物質が、鼻の奥の嗅粘膜に溶け込み、嗅細胞が電気信号に変換し、嗅神経が電気信号と化学物質で中継し、視床を経由※1し、脳の特定の領域に伝え、「におう」と言われる感覚が生まれる。 - 【味覚】
口で味わうこと。舌に接した食物などの化学物質を、舌の表面にある味蕾(味細胞※2の集合体)が感知し、味神経※3がその刺激を電気信号と化学物質で中継し、視床を経由して、脳の特定の領域に伝え、「味」と言われる感覚が生まれる。 - 【触覚】(皮膚感覚)
肌で触る・何かが肌に触れること。肌に接する外界からの刺激を、皮膚にある様々な感覚受容器(触覚・圧覚・痛覚・温覚・冷覚など)が電気信号に変換し、神経が電気信号と化学物質で中継して脊髄に入り、視床を経由し、脳の特定の領域へ伝えられて「触れる」や「痛い」、「温かい」「冷たい」といった感覚が生まれる。
皮膚感覚と深部感覚(位置覚、運動覚、抵抗覚、重量覚)を合わせて体性感覚という。
内臓感覚(臓器感覚、内臓痛)という感覚もある。
※1: 「3. 視床のにおい応答 嗅覚は視床を経由しないと言われてきたが、視床背内側核(MD)の細胞はにおいに応答する。さらに、においに応答するMD細胞が大脳皮質嗅覚野にその軸索を送っている。」PDF『嗅覚中枢の神経生理学』小野田法彦 須貝外喜夫 p.179
※2,※3: 「味細胞」「味神経」と書いてどう読むかについての情報が極めて少ない。翻訳と辞書という辞書サイト、生物・化学用語読み方辞典ではどちらも「みさいぼう」とする。Medical Note の耳鼻咽喉科の講師による記事でも「みさいぼう」とある。Weblio辞書では、あえて読み方を書いていない(「味蕾」では読み方を書いている)。
感覚器や脳に損傷をうけると
また、それぞれの感覚器や神経、脳の特定の領域に異常が生じた場合には、それらの領域が担当する感覚に異常をきたし、全く感じられなくなることもあります。
例えば、視覚器(眼球など)や視神経が損傷すれば、目が見えにくくなったり、視野が狭くなったり、全く見えなくなる…つまり視覚的映像が無くなってしまいます。
また、脳の後頭葉にある、視覚野と呼ばれる領域が損傷をうけると、視覚器と視神経が送信してくる信号を受信していても、それが何であるかを識別できなくなります。
「見える」という感覚、「視覚」を生み出している感覚器や脳の領域が損傷をうけると、当然、「見ること」自体が無くなってしまうのです。
これは聴覚、味覚、嗅覚、触覚においても全く同様で、それぞれの感覚器や神経、脳の特定の領域がそれぞれの感覚を生み出しているのですから、その器官の機能が失われれば、その感覚が無くなる、というのは極めて自然に理解できることだと思います。
つまり、それぞれの感覚は、それぞれの感覚器官によって初めて生み出されているものであり、外界に客体として実在する実像ではないということがわかります。
[主な参考サイト]
【視覚】⇒ 脳科学辞典 看護roo! Wikipedia 受験のミカタ
【聴覚】⇒ 看護roo! 脳科学辞典 受験のミカタ
【嗅覚】⇒ 看護roo! みんなの嗅覚 におい・かおり環境学会誌「嗅覚中枢の神経生理学」
【味覚】⇒ 看護roo! 味覚ステーション カラパイア 岡山大学 脳科学辞典
【触覚】⇒ ビジュアル生理学 看護roo! Wikipedia 痛みwith/OMRON 合格!PTOT国家試験完全解説ブログ
【損傷をうけると】⇒ MSDマニュアル家庭版 Medical Note
すでに反転している
さて、身体において五感がどう生まれているかを簡単に示しました。
そしてこれだけの記述の中にすでに、意識が反転していることの答えが丸出しになっています。
反転の確認
意識が反転していることの確認をしていきましょう。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚のいずれも、
- ある刺激を感覚器が感知し、
- 刺激が電気信号に変換され、
- 神経・視床が中継して、
- 脳の特定の領域に伝わり、
- 感覚を生成する
という流れです。
すべてどの感覚も、脳に達するまでに 電気信号 や 化学物質 に変換され、その信号を元に、
脳の中 で生み出されています。
では質問です。
あなたが今、目にしているこのページの画面は、どこにあるのでしょうか。
あなたが今、手に触れているものは、どこにあるのでしょうか。
あなたが今、聞いているその音は、どこで鳴っているのでしょうか。
あなたが今、嗅いでいる匂い、その味は、どこにあるのでしょうか。
あなたが今、読んでいるこの文字と文章の意味は、目の前の画面の中にあるのでしょうか。
結局、あなたが今、自分だと思っているその身体は、どこにあるのでしょうか。
あなたは本当は、脳の中に住んでいるのではないでしょうか。
あなたが住んでいる世界は本当は、脳の中に広がっているのではないでしょうか。
あなたが「外の世界」だと思っていたその世界とは、脳の中で、脳の働きによって感覚化され、作り上げられているものではないでしょうか。
あなたが「外」だと思っていた方向は、実は「内」であったことにならないでしょうか。
これは外と内との反転です。
一枚の紙の裏表がひっくり返るような反転ではなく、
球の外面と内面の反転です。
同一の空間内で、その中の一つの物体がひっくり返る反転ではなく、
外的空間(宇宙/世界)のすべてが、内的空間へと反転するものです。
(真実の外の世界についての考察は、第二部にて詳述いたします。)
ここでもう一度、このページの冒頭で示したイエス・キリストの言葉を引用します。
あなたたちとわたしとを引き離している扉を開くためにわたしは来たのである。
それは外なる感覚という扉である。あなたたちはこの外なるものの中に住んできたために、内なるものが分からなかったのである。
イエス・キリスト
「心身の神癒 ―主、再び語り給う― 」M・マクドナルド・ベイン著 霞ヶ関書房 p.343
この世界が脳内で生み出される感覚に過ぎないということが理解できたとしても、依然として以下のような疑念はあろうかと思います。
「感覚の対象となる物質は、体の外に存在しているはずだ。存在していなければ、知覚することもできないのだから。一貫性をもった物理法則も観測することができるし、外の世界はたしかに存在する。だからすべてを幻想のように言うことは間違っている」
こういう疑念です。
そのいわゆる「外の世界」「物質」についての考察は、第二部で進めてまいります。
「遠く」を「見る」こと
あなたが見ている目の前の光景は、本当にそこにあるのでしょうか。
目の前にある近くのものから、だんだん視線を離していって、遠くの景色を見ることができます。
しかし、その「遠く」とは、それはあなたから本当に離れているものでしょうか。
それは、あなたの脳の中に表現された、ただの像ではないのですか。
ただの像であると、現代科学がそう言っていますよ。
脳科学や、神経科学、生理学、医学などが、そう言っているのです。
(実は誰もそうだとは言っていないのですが、科学が言っていることを総合すると、そういうことでしょう、という意味です)
「遠く」という感覚は、主に視覚によって感じられます。
一般に「遠く」とは、皮膚感覚では届かない距離を言うので、皮膚で「遠く」を感じるものではないですし、嗅覚で感じる匂いは、どれほど離れた場所から風に乗って届いた化学物質であっても、鼻の奥の粘膜で捉えてから感覚化されるものですので、結局は距離の感覚ではありません。
つまり「距離を感じる」ということは、人間の感覚の中でも非常に特殊な(風変りで面白い、視覚特有の)感覚であることがわかります。
一般的には「遠近感」「遠近法/パースペクティブ」「空間認識」といった言葉がありますが、こうした認識が、主に視覚によって生み出されています。
しかしそうした(立体的な)遠近感や空間認識も、両目での視点の微妙なズレを脳内で補正して生み出しています。
両目の肉眼で見ている対象(例えば可愛い我が子の顔)をカメラで撮影したとき、その画像は、角度を変えて何度撮っても、自分が感じていた顔の印象と違うことがあります。というか、いつもそうです。
これは、肉眼の場合、両目の視点のズレを脳内で合成して「立体」を感覚化しているために、一つの目しか持たないカメラで撮っても、ほっぺたの膨らみや、横顔の手前と奥の目が並んだ美しさを(脳内ほどには)表現できないためです。
試しに、すぐ近くで子供や妻・夫、恋人、ペットなどの顔をまじまじと見て、「美しいなあ」と思ったら(←ここが大事)、そのまま片目を左右交互に閉じてみてください。右目と左目でこんなにも違う角度で見ていたのかと驚かれるかもしれません。
そして左右どちらの視点も、両目のときの印象とは違うのです。
片目によっても、対象物や自分の身体を移動させることで、視点と対象物の移動を連続的に捉え、時間(記憶)的に統合して処理することで、空間認識を得ることができます。
しかし結局、そうした「認識」も、視覚が
「光(電磁波)を目の中で捉えてから脳内で感覚化される」
ものである以上、「遠く」「近く」「物と物との重なり」といった見え方も、脳の機能が生み出す表現/感覚であることに変わりはないのです。
あなたが「遠くを望み見ている」と思っているとき、
それは本当は「脳の中を望み見ている」のであり、
もっと言えば、「”遠く”という感覚を感じている」というほうが正確でしょう。
「遠く」は、常に今ここで生み出されているものなのです。
「木が遠くに見える」のではなく、
「”木”という概念を当てはめている像が、”遠く”という感覚と統合されて知覚されているのを、”見る”という感覚によって味わっている」
というほうが真実に近いのです。
何光年も離れた星を観測していても、それは地球上の天体望遠鏡で感知した光から映像を生成したものであるのと同じ構図です。
何光年もの「距離」を見ているのではないのです。
「文章を読む」ということ
あなたは今、このページの私の文章を読んでいるつもりでしょうが(私もあなたがそのつもりであることを想定してこの記事を書いていますので、そうであってもらいたいのですが)、もちろん実相はそうではありません。
本当は、あなたは今この白い背景と黒く細い線のコントラストを文字として認識し、その「文字」の羅列を文章として組み上げ、その文章から意味を生成しています。
あなたが本を読んでいるとき、その本の内容/意味/主張が、本のページの中に埋め込まれているとは誰も考えないでしょう。文学的な表現としてはありだとしても。
あなたが本を読んでいても、ブログを読んでいても、ネットニュースを読んでいても、あなたはあなたの脳内を「見て」、自分で自分なりに意味を生成しています。
あなたが文章を読んで生成している意味は、あなたが生成しているもので、筆者の意図とは別次元のものです。しかし別次元ではあっても、共通の法則によって裏打ちされているからこそ、曲がりなりにも筆者は他者に意図を伝えることができています。その法則とは、実は人間の意識の背後にあるものであり、個我の次元とは別のところにあります。このあたりは第二部で語る範疇にあたります。
五感のすべての働きが、同じくその通りであるということです。
触覚が生み出す空間
わかっていますよ。まだ納得されない方がたくさんあることを。
これだけ科学的な根拠を提示しても、まだ足りないのでしょう。
リンク先を開いて確認する人は希少ですし。
そもそも、ほとんど全ての科学者も、今私が言っていることを理解していないのですから。
なぜどの科学者も自分で言っていることの意味がわからないのか、その大きな理由の一つは、私がこのことに気づいて割りと初期の頃から見当はついていました。
それは、触覚が生み出す空間の存在感です。
触覚、つまり皮膚感覚や体性感覚、深部感覚、そのほか内臓感覚などを総合したものです。
今考えてみると、平衡感覚なども入ってくるかもしれません。
「触覚が生み出す空間の存在感」とは、
- 例えば、あまり無邪気に手を振り回すと近くにあるテーブルにぶつけて痛い思いをすることもあるとします。
- 手を振り回すことができるということは、周囲に空気だけの領域が十分にあり、手を振り回すことに強い抵抗が生まれなかったので気分が良かったのです。
- しかしテーブルに手をぶつけて痛かったということは、空気の軽い抵抗に気を良くして手の速度を上げていると、手の軌道が逸れて、空気とは全く違った密度をもった領域に当たり、手の骨や筋肉に強い抵抗を受けて、痛覚を知覚したのです。
こうした”物質”と言われるものの密度の違いによって、人間の身体は行動の制限を受けるので、視覚が生み出す空間認識とは決定的に違うレベルでの「空間」に、圧倒的な存在感/実在感を感じてしまい、その中に意識(の焦点の位置)が埋没してしまうのです。
壁にはぶつかって遮られてしまうが、部屋の中に充満する空気の密度の中では比較的自由に体を動かせるので、壁と床と空気の密度の差異/コントラストに”空間”を感じてしまうのです。
私が後年、経済・金融について調べはじめて、経済の専門家らが総じて抱く、貨幣に対する幻想の根本原因は、やはり貨幣を物質(現金紙幣・硬貨)としてしか見られないからだと思ったのですが、
どうもこの「物質」という概念は、人間存在を地上に繋ぎとめる鎖のようなものであり、人間存在の核そのものという気がします。物質という概念と自我の働きは、本質のところで通じているのでしょう。
人間存在の核は”物質”なるものを生み出し、自分が生み出したその”物質”の中に住まうのです。
この「触覚が生み出す空間」が非常に強固で、「外界に広がる世界」「空間の中にいる私」という概念を強化してしまうのです。
もう一度確認
しかしもう一度確認しますが、触覚にしてもその他の感覚と同様に、感覚器の刺激が電気信号や化学物質に変換され、その信号から脳機能が表現したものです。
手をテーブルにぶつけたとき、あなたはテーブルを感じているのではありません。それはあくまで電気信号から生成される”感覚”としての表現であることを忘れてはなりません。
電気信号がテーブルであると言えるでしょうか。
テーブルに触っているその手の感覚も、電気信号から生成された感覚です。
テーブルを見ているその映像も、眼球の中の網膜で捉えた光(電磁波)を、電気信号に変換し、神経が中継しますが、神経細胞(ニューロン)どうしでは、なんなら接してさえおらず、微小な間隔を化学物質で伝達し、後頭葉へ連絡して像を結んだものです。
(伝言ゲームみたいなものです。最後の人が答え合わせで言った言葉が、我々の世界を作っています。)
それを「テーブルだ」と主張するのは、人間の概念、或いは思い込みであり、そう言いたいのならご勝手にどうぞというレベルでの幻想です。
そもそも「テーブル」「机」という名前も使い方も、人間が勝手に決めたことなのですから。「テーブル」という像も人間が作っているのです。
テーブルを撫でまわしても、見つめても、耳を当てても、嗅ぎまわっても、舐めまわしても、どうしても、どう頑張っても、テーブル本体というものは知覚できません。そんなものはどこにもありません。
全てあなたの脳機能が生み出す感覚を感じているだけなのです。
感覚とは比喩であり、表現である
感覚とは脳機能の表現です。
「熱い」とか「冷たい」という感覚は、ただ人間の脳機能に設定された表現です。
熱い物と冷たい物の違いはなんでしょうか。
それは、原子・分子の振動の振幅の違いです。
原子・分子は常に振動していますが、その運動エネルギーが高まると振幅が大きくなります。より激しく振動することになります。
人間の肌に強い熱エネルギー(原子・分子レベルの振動エネルギー)が加わると、皮膚にヤケドを起こし、水ぶくれができたり、より重症になる場合があります。
人間としてはこれではいけないということで、「熱い!」という感覚を生起して自身に警告を発し、(脊髄)反射的にその状況を避けようとします。
「熱い」という感覚は、人間の脳機能に設定された一つの表現であって、
触ったその物質が「熱い」のではありません。
その物質は、たまたま原子・分子の振動が、人間の肌に良くない程度に大きかっただけです。大きく振動していただけなのです。
それに触れたとき、人間は「熱い」というあの感じを生起するように設定されているだけなのです。(この例えくらいに「熱い」場合は、温覚よりも痛覚の働きです。)
その物が熱いのではなく、「熱い」という感覚を脳内で生み出しているだけ。
その物が匂うのではなく、その物から発せられる化学物質の「匂い」を脳内で生み出しているだけ。
その物が遠くにあるのではなく、眼球の網膜で捉えた光(電磁波)を処理して、「遠く」という感覚を脳内で生み出しているだけ。
全てがこの通りなのです。全てですよ。
あなたのこれまでの人生の全て、これからの人生の全て。全てです。
全てが 今ここ であるということが、これでおわかりでしょうか。
神道では、この真理を「中今」と言います。
(誰もこの意味で解説している人はいませんが)
あなたはもしかすると、スピリチュアルやチャネリングで、
「人生には何の意味もありません」
「意味はあなたが与えるものです」
という言葉に出会ったことがあるかもしれません。
その言葉の意味を、実は純度の高い科学の知見で説明することができるのです。
禅における「無」や、仏教における「空」の観念にも通じるかもしれません。「色即是空」などは、まさにこのことであるとすら言えると思います。
とにかく意識において、
観察する対象という対象の全て、
それらに付属する概念という概念の全て、
知覚される感覚という感覚の全て、
これらに実体など無いのだということを、実は科学が解き明かしているのです。誰も知らぬ間に。
宇宙という無限の空間が存在していると思いますか?もう一度この記事を最初から読みなおしてみてください。
感覚の投射と幻肢
投射とホムンクルス
生理学では、「感覚の投射」※4という言葉があるようです。
手で熱いものを触ったとき、その刺激は大脳の感覚野に伝達され知覚されますが、「熱い」という感覚は「手」に感じられます。脳の感覚野の部分が熱いのではなく、「手が熱い」と感じられます。
これを「投射」というのです。
要するにこれも脳内での働きなのですが、もちろん今私が意図するような意味では説明されていないようです。
※4: ◆ビジュアル生理学:体性感覚と内臓感覚 ◆生命科学教育:神経系/感覚/一般的特性/投射
なぜ脳内で生成される感覚が、脳から離れた(ように感覚化される)手や足に直接感じられるのでしょうか。
それも脳科学ではある程度説明のつくことなのですが、脳科学には「体部位再現」※5という言葉があります。
これは身体の各部位が受けた刺激が、前述した伝導路で脳の特定の領域に伝達され、手なら手、足なら足の皮膚感覚や痛覚などを感じたり、それらの部位を運動したときに自分の身体として感じられる深部感覚が得られることを言う言葉です。
脳の機能によって身体の各部位の感覚が「再現」されているという意味の言葉です。
※5: 脳科学辞典/体部位再現
脳は身体を感覚化して「再現」しているだけという説明に、現代科学の物質性を如実に感じざるを得ませんが(物質が外の世界に実在しているという強固な思い込み)、ともかく、
脳には、身体の各部位に対応した感覚を生じる特定の領域があり、脳におけるそれらの位置を図示したものが「ホムンクルス」という名称で知られています。
【図1】が、そのホムンクルスで、体部位再現図(somatotopy)とも言います。
(”ホムンクルス”とは、ラテン語で”小人”を意味します)
脳の断面の周辺に描かれた身体の部位が、ちょうど脳のその辺りで「再現」されていることを示しています。
…実は、「投射」に関して調べてみても、どのようにして投射が起こるか、その仕組みを詳しく解説したものが見つかりませんでした。
私が生来の横着者であることも大きな要因ですが、もしかすると現時点では、投射の不思議な仕組みは”解明”されたことにはなっていないのかもしれません。
しかしこのホムンクルスを見ればわかるように、身体の各部位の感覚は、それぞれに対応する脳機能によって生み出されているのです。
指先も、手のひらも、手首も、前腕も、肘も、上腕も、肩も、首も、顔も、頭皮も、ずっと繋がって感覚化されているのです。
その統合された感覚が、脳(頭部)から手の指先までの”距離”を生み出しています。
空間が先にあって、その空間の中に手が伸びているのではなく、
感覚の統合と連続によって、身体の長さや距離的な感覚が生み出されています。
(”空間”も”物質”も幻想です。人間の感覚です。)
ですから、何もわざわざ「投射」などと複雑に考えなくとも、手の感覚も足の感覚も、身体のどの感覚も、元々すべて脳内で生み出されているのですから、ただそれだけのこと、なのではないでしょうか。
幻肢
さらに原理が解明されていない現象として「幻肢」というものが挙げられます。
これは、先天的に四肢(手足)が欠損していたり、事故や病気によって四肢を失ってしまった人にも、手や足が存在しているように感じられる/感覚があることを言います。
中には、存在しないはずの手や足を随意に(思い通りに)動かせる感覚がはっきりとある人もいるようです。
幻肢痛※6という症状もあり、存在しないはずの手や足が痛むというものです。
※6: ◆「幻肢痛の脳内メカニズム」PDF 日本ペインクリニック学会誌 Vol.17 No.1, 2010 四肢切断後の50-80%の患者が幻肢痛を発症するとされる。文献の2010年現在、有効とされる治療法は、p.6の鏡療法や p.8のロボットスーツを用いて中枢神経系の「知覚-運動ループ」を再調整することが有効とされている。
◆「脳科学からみた脳内身体表現への介入」PDF 計測と制御 第 56 巻 第 3 号 2017 年 3 月号
幻肢痛の治療法は、臨床(医療現場)レベルでは効果的なものが認められているようですが※6、根本的な発症の原理については、実験や臨床から仮説は立てられるものの、はっきりと説明はできないようです。
この幻肢という現象については、この記事の第二部で論じる範疇にもあるかと思いますが、まず言えることは、
”物理的”な手足が無くとも、脳機能によって存在を感覚化し、随意運動すらできてしまうことです。
身体は物理的なものであり、脳の感覚はそれらを「再現」したものという現代科学の考え方では、この幻肢は、脳の機能不全の一例(知覚-運動ループの不整合)でしかありえないでしょう(治療の研究に情熱を傾けておられる研究者や医師は尊敬します)。
しかし、この記事を書いている私には、第一部と第二部をまたいだ大きな意味を見出すことができると考えています。なので早く第二部へ移りたい気持ちです。
手や足、ひいては身体のすべては、脳の中にある、ということです。脳内の手の感覚があるということは、それこそが「手がある」ということですし、脳内の足の感覚があれば、それこそが「足がある」ということなのです。
幻肢の感覚は、それこそが四肢そのものだと思うのです。
(幻肢痛は神経回路の不整合によるのかもしれません)
今、あなたが感じているそのご自身の手足が、すでに幻肢であると私は言っています。
(物理的身体における「外界からの刺激による皮膚感覚」という一種のフィードバックは、第二部の範疇です)
幻肢については、そもそも論として健肢(健常の四肢、皮膚感覚で触ることのできる手足)が、自分の意図と感覚に即して運動させられることの不思議・神秘を包含していると思います。
物理的身体/物質が、有る/無いという感覚については、「脳内」とその外側「本当の外界」との相互作用だと想定しているので、このあたりを第二部でお話します。
もちろん脳科学では、私がこの記事で述べてきたようには説明されていないのですが、ここから私が、あくまでも脳科学や生理学の知見に基づいて、自然に導き出される事実を述べていきます。
先述の五感の伝導路(五感の発生の仕組み)と、感覚の投射、ホムンクルス、幻肢を総合して考えて自然にわかることは、
- 人間の感覚とは脳機能が生み出しているものであること
- そして人間の身体とは、それらの感覚を統合して得られる感覚/概念であること
- 身体の各部位の感覚が脳のどの領域で生み出されているかは科学自身が特定していること
です。
ですから、自ずとこのように言うことができます。
人間の身体は脳の中にある
そして、「世界」とは、人間の感覚が生み出しているものですので、このように付け加えることができます。
人間の身体は脳の中にあり、そこから広がる世界もまた、脳の中に広がっている
すなわち、
これまで人類が「外の世界」だと思っていたものは、脳内世界だった
言い換えれば、
あなたが今見ているものは、あなたの脳内に生起された感覚である
では、脳内世界に住む我々の「本当の外の世界」には何があるのか。そこはどんな世界なのか。物質はあるのか。
いよいよ第二部へ移りたいと思います。
第二部もまだまだ量子力学などの科学的知見を引用しますが、大部分は私の直観と、ヌーソロジー、スピリチュアルなどの情報を辿りながら、本当の意味での宇宙的な思索を展開します。
第一部よりはもう少しゆったりと論じていきたいと思います。
ここから科学の成分が減るのは仕方ないことです。
科学自身が解明しながら、同時に見落としていた世界のことなのですから。
そしてその前に、一つ私が立てている仮説をご紹介します。
人間存在の内と外は球の反転構造になっており、
その反転の特異点が、人間の肉体構造においては脳(視床)となって感覚化されている
というものです。
第二部をご覧ください
以下は「幻肢」についてのメモです。載せておきます。
■体部位再現図(somatotopy)は、一次体性感覚野、一次運動野、視床に存在する。体部位再現は「ホムンクルス(小人)」とも呼ばれる。■幻肢の大きさ(健肢に対して幻肢の大きさをどう感じているか)は、1:1であることが分かっている(「幻肢痛の脳内メカニズム」 p.3)。■幻肢患者の中には、幻肢を随意に運動させられる(幻肢が運動するように鮮明に知覚できる)人がいる(「幻肢痛の脳内メカニズム」 p. 4)。■脳内での四肢運動の実行・認知に関しては、幻肢と健常肢に区別はないように推察できる(「幻肢痛の脳内メカニズム」 p. 4)。