「心身の神癒 ―主、再び語り給う―」M・マクドナルド・ベイン 著
人を援助する場合、彼らの裡に宿る神我の創造力によって自分で自分自身を助ける行き方を示してあげるのが[他のいかなる方法よりも]遥かに良いのである。
あなたたち自身が直接に相手を助けてやるのは神の経綸ではない。たとえ困っている人々に衣食を与えたところで神我魂という真の賜物、あらゆる魂の中に宿る勝利者に触れないで放ったのでは、殆ど助けたことにはならないのである。
あなたたちがあらゆる魂に手渡してやらなければならない大いなる真理は、彼らに内在する神我の力である。これこそが神の大いなる賜物である。
すべての人々が悟りによって内在の神我を把握するようにしてあげるのがよい。勝利は元々各人自身の中にあるからである。与えることは尊い。しかし、神我力に対する悟りを与えることはあらゆる真の幸福の背後にある秘訣である。それが神の英智である。
あなたたちとわたしとを引き離している扉を開くためにわたしは来たのである。
それは外なる感覚という扉である。あなたたちはこの外なるものの中に住んできたために、内なるものが分からなかったのである。
しかし外なるものは内なるものの反映(うつし)にすぎない。銘記するがよい。肉の望むものでも裡から供されるのである。しかし肉のもの(複数)にはすべて終わりがあるが、み霊のものは久遠である。
わたしは肉のものを拒否せよと要求するのではない。肉体の中に宿っている間はそれも必要ではある、しかしみ霊のもの(複数)は更に一層重要である。
また肉のもの(複数)を軽蔑してもならない。その代りその値打ちを認め、よく知り、それに応じた用い方をするがよい。
それはそれ自身としての実在ではない。それは目的に対する手段であって、目的そのものではない。そのゆえにこそわたしは肉の望むもの(複数)と肉のもの(複数)には終りが来るが、み霊のもの(複数)は存続すると、いうのである。
現象我は感覚の幻影である。しかし真の現象我は聖なるみ霊が日常の行為に現れた相である。
pp.342-344
あなたたちはイエスという現象我を考えてはならない、またこのような現象我を想像してもならない。そうすることは神我という真理についてあなたたちを盲目にするからである。神我は父の一人子、あらゆる現象の背後にある力である。
p.345
肉体の感覚にまどわされ、いかに自分の意識が制限されるままにしてきたことか。あなたたちが内界に来れば、自分がこれまで真理について如何に無智であったかが解るであろう。しかし、あなたたちに告げるが、まことにあなたたちに告げるが、今あなたたちの中で働きつつあるのは父なのである。
p.298
世は外界の妄想に目を眩まされ、多くの人々が混乱している。彼らは自分の中にある生来の力によって自分自身の混乱を造り出してしまっている。
人は五官の妄想に目を眩まされている。しかし内在のみ霊の内なる働きが内在の神の分霊を展開しつつある。五官の妄想が消え去るのも遠くはないであろう。
p.324
心が惑乱していると平安はありえない。わたしに惑乱はない。わたしは自分が生命であることを知っている。もしもあなたたちの心が、お互いを分離させ合っているいろいろな観念や信仰のために惑い乱れているならば、あなたたちは決して「唯一、無二」の久遠の神を知ることはできないのである。
p.325
人間のうちでも最も下劣で、腐敗しきった者、父に対してあらゆる種類の罪を犯したであろう者でも、自分の一切の悪を告白し、聖なる赦しを求めて、その慈悲に全託しさえすればよいのである。
わたしの父はその恵みを彼の前に拡げ、責めもし給わずにその食卓の席を彼に与え給うであろう。
p.367